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かくれキリシタンの聞き書き写真集 

友人の写真家、後藤真樹さんが長崎の潜伏キリシタンの写真集を上梓。
数年前から現地を訪ねて、写真を撮影するだけでなく、土地の人々の話を聞いて文にまとめているところが後藤真樹さんらしい仕事だ。

じつは近年の研究によれば、潜伏キリシタンは秘かにキリスト教の信仰を守りつづけたというのではない。土地に伝わる土着の神々や仏教とダイナミックに習合し、独自の文化を生み出した。

世界文化遺産に登録を契機に、これから続々と刊行されるであろう観光ガイドブックの世界遺産ものと違って、深く土地の文化を伝える貴重な写真集だ。

かくれキリシタン表紙 画像はクリックで拡大します。

かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅
新潮社・とんぼの本 1600円

かくれキリシタンもくじ もくじ

かくれキリシタン内部 
右は大野教会「昭和の民家のような御堂」(同書キャプションより)
左は土井ノ浦教会のマリア像「西洋的にも東洋的にも見えるお顔」


かくれキリシタン寺

潜伏キリシタンはお寺の檀家でもあり、神社の氏子でもあった。


かくれキリシタンp27

左上は「祈りの岩」。昔、神父様の遺体はキリスト教の伝統によって棺に横たえて埋葬された。それと分からぬように大きな岩をかぶせたという。

このページのように、写真とともに後藤さん自身が土地の人から聞いた話が豊富。土地の人々の顔写真も随所にあり、味わい深い表情だ。

大角修

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宮沢賢治と法華経2 

『全品現代語訳 法華経』で3か所で宮沢賢治について触れた。その1は「道場観と宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、次に[第二十六章]神呪妙法蓮華経陀羅尼品第二十六
[コラム]陀羅尼と祈り


全品法華経大 『全品現代語訳 法華経』

 宮沢賢治に毘沙門天の陀羅尼を詠みこんだ詩があり、陀羅尼の本質的なところを表しているので紹介しておきたい。

  祭日〔二〕 文語詩未定稿

 アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
 峡(かい)に瘧(おこり)のやまひつたはる

 ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて
 草の峠を越ゆる母たち

 ナリトナリアナロ 御堂(みどう)のうすあかり
 毘沙門像に味噌たてまつる

 アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
 四方につゝどり鳴きどよむなり 

 この詩の「御堂」は岩手県花巻市の成島毘沙門堂であると推定されている。その毘沙門像は平安時代の作と伝える重要文化財で、この詩の「御堂」も古いものであると思われる。古木の森に堂は神さび、晴れた日でも堂内は暗い。そんな仏堂であろう。

 その毘沙門堂の祭礼の日、おりから峡(谷間)の村には瘧(熱病)がはやっていた。病気の子を悲しむ母たちは陀羅尼を唱えながら峠を越え、毘沙門天に供物の味噌を供える。

 この詩は毘沙門天の陀羅尼「アリ・ナリ・トナリ・アナロ・ナビ・クナビ」の中途から始まり、一部が重なりながら四句目で一巡する。母たちはくりかえし唱えているのだろう。そして、古びた暗い堂内には灯明に照らされて、遠い祖先から伝えられ、人の一生を超えたものがある。

 伝統の宗教は、信じるか信じないかの二者択一のレベルにあるものではない。初詣や寺社の縁日に多い受験合格や家内安全祈願は、特に信仰があるから、そうするというわけのものではないように、陀羅尼には仏や神々の力がこもるといっても、それを頭から信じている人は、あまりいないであろう。しかし、桐の花が咲く睡たげな初夏でも人里に病は伝わり、人は苦しみを避けることはできない。だから、人は祈る。たとえ医師の治療を受けていても、重い病気であれば神仏に祈るのが通常の人の心である。

 この詩にある瘧は童病ともいい、激しい熱発に苦しむ子をみる親はつらい。といって、医者にもみせずに祈願するというのでは、狂信の世界に陥る。賢治の時代の農村の医療は貧しいものだったとはいえ、熱さましの置き薬ぐらいはあっただろう。土地に伝わる民間療法もあっただろう。母たちは精一杯の手当をしたうえで、おりから祭礼の毘沙門堂に草の峠を越えて行くのであり、そこに切々たる思いがある。「草の峠」は苦しみ多い人生の山谷を暗示し、毘沙門天の幡でも持っていなければ越えられないことを感じさせる。

 しかし母たちは、打ちひしがれているのではない。この詩は生きることの哀愁をたたえているが、反面、若やぐ初夏を歌う。カタカナ表記の陀羅尼が軽快に音を刻み、結語の「四方につゝどり鳴きどよむなり」は、ホトトギス科のツツドリが鳴く若葉の候の自然のなかに全体を包み、病苦をも乗り越えていく健気な人生を、母たちが生きていることを示している。

 伝統の祭礼は、そういう力強いものであった。祭礼においては、信じるとか信じないというレベルを超えて、神や仏と呼ばれる大きなものと人は出会う。それを祖先とか祖霊と呼んでもよい。また祭礼には、流れゆく日常に区切りをつけて新しく時を再生する機能があり、そこから生きる力が引き出される。もし寺も神社も祭礼もなければ、人生はひどく乾いたものになってしまうだろうし、そもそもそんな社会はありえない。

 岩波文庫『法華経』(坂本幸男・岩本裕訳・改版一九七六年)の解説によれば、そもそも陀羅尼は神々の名または異名の呼びかけの語形で記されたものだという。とすれば、祝詞または神楽のような奉納劇で唱えられたものであろう。法華経のなかで陀羅尼品はもっとも解釈の難しい部分であるが、それは思想的に陀羅尼を理解しようとするからであって、種々の演目の神楽を次々に演じる祭礼のような場面と考えれば、躍動する人の心が伝わってくる。おそらく、大勢で陀羅尼を唱える法会を背景として陀羅尼品が成立したのだろう。


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法華経と宮沢賢治1 

近著の『全品現代語訳 法華経』で3か所で宮沢賢治について触れた。
まず[コラム]道場観と宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を順次アップしたい。

全品法華経大 『全品現代語訳 法華経』

「如来神力品」のうち313ページの「即是道場」の部分の経文は「道場観」とよばれ、とりだして読誦される。

当地是処 即是道場(トオチイゼイシヨオ ソクゼエドウジヨウ)
諸仏於此 得三菩提(シヨオブツオーシイ トクサンボーダイ)
諸仏於此 転於法輪(シヨオブツオーシイ テンノウホウリン)
諸仏於此 而般涅槃(シヨオブツオーシイ ニーハツネエハン)

 ここでいう道場は修練の場所のことではなく、釈迦の成道の地ブッダガヤの金剛宝座(ブッダガヤ大塔の下にあり、今も世界の仏教徒が参詣するところ)を原点とする諸仏のさとりの場である。それは時空と生死を超えて今この場にあるという。曹洞宗の開祖=道元(一二〇〇〜一二五三年)が臨終のときに唱え、みずから壁に記したのも、この部分の経文だった。

 ところで、前ページの道場観のルビは宮沢賢治(一八九六〜一九三三年)が友人あての手紙(書簡389)に書いているもので、そのように唱えたのだろう。賢治は法華経を信奉した作家で、『雨ニモマケズ手帳』に「筆ヲトルヤマツ道場観奉請ヲ行ヒ 所縁仏意ニ契フヲ念ジ 然ル後ニ全力之ニ従フベシ」というメモを記している。童話や詩を書く前にまず道場観を唱え、その作品が仏意(如来の心)にかなうものであるように念じたのだ。

 宮沢賢治は昭和八年に三十七歳の若さで病没した。その後、賢治の旅行かばんの中から「雨ニモマケズ」が書かれていることから『雨ニモマケズ手帳』とよばれる手帳が見つかった。

 そのかばんには、父母と弟妹あての二通の手紙もあった。日付は昭和六年の九月二十一日、北上山地の石灰石製品の販路を広げるために上京し、高熱を発して倒れこんだ旅館で書いたものだ。それは「今生で万分の一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします」(父母あて)等と書かれた遺書だった。その時期の手帳に記された「雨ニモマケズ」も、もしも来世があるなら「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という願いをあらわし、続いて「南無妙法蓮華経」の題目がしたためられている。
 そして、その手帳の鉛筆差しに押し込まれた紙に次の短歌が書かれていた。

  塵点の劫をし過ぎていましこの 妙のみ法にあひまつりしを

 過去の永遠の時を過ぎて今ようやく「この妙のみ法」、すなわち法華経に出会うことができた。今生は満足なこともできず、もはやこれまでだとしても、「すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ」(詩「小岩井農場」)のだし、「善逝の示された光の道」(童話「雁の童子」)を行くのであれば、「みんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」(童話「銀河鉄道の夜」)ことだってできるはずである。

 こうした賢治の言葉の意味するところは、長い歴史のなかでつちかわれた感覚が大きく失われた今では、たいへんわかりにくくなってしまった。辞書をひくと「塵点劫」という言葉の意味は書かれているけれど、「世界をすりつぶして塵にして……」といった説明にかえって戸惑いが深まってしまう。しかし、本書をここまで読んでくださった方には、よくわかることではないだろうか。


hokekyo_317.jpg「雨ニモマケズ」末尾(『全品現代語訳 法華経』より)

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天皇と皇室の今後 

いよいよ平成の世もあと1年となり、新聞各紙が特集記事を掲載しています。この機に『14歳からの天皇と皇室入門』から「おわりに 天皇と皇室の今後」をアップします。

天皇と皇室の今後

日本国憲法に天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基く」と定められています。しかし、天皇は選挙で選ばれたわけではないし、国民投票によって信認を受けたわけでもありません。また、皇位は世襲であるといった規定は憲法にあるのですが、「象徴」という言葉が何を意味するのかは書かれていません。
それをどう考えるのかについては天皇自身が平成28年(2016)8月、「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」というビデオメッセージで次のように語られています。

「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています」

平成の天皇は、戦後の昭和天皇の全国巡幸の姿勢を引きついで太平洋戦争の激戦地を訪ねたり、災害に見舞われた人々を慰問したりする旅をつづけてこられました。

「私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は(中略)国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」(同)

天皇の各地への訪問は、いわゆる「ご公務」にあたる行為で、必ずおこなわねばならないことではありません。しかし、それによって天皇は「国民統合の象徴」になったことを明確に述べられています。
そして天皇は「既に80を越え(中略)これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」と語って譲位の意向を示されました。それが国民の圧倒的な支持を受けたことによって皇室典範の特例法が国会で議決され、平成31年(2019)年4月30日に退位、5月1日に新天皇の即位という日程が閣議で決定されたのでした。

本書では古代から現代までの天皇の歴史をたどってきましたが、いつの時代にも、古代の大和国家以来の皇統をうけつぐ天皇が存在しつづけたことは他国に例のない日本の歴史と文化の特質です。とはいえ、天皇の性格は時代とともに大きく変化してきました。とりわけ明治以来の近代国家の天皇は、それ以前とは様変わりした姿を見せました。
その後、現代の天皇は「はじめに」にも記されているように日本国憲法第九条の「戦争放棄」条項と不可分の象徴天皇として再出発しました。そして、日本の国の状況が大きく変化している今、天皇と皇室のありかたが改めて国民に問われています。
とりわけ、日本の国民や居住者に他国・他民族をルーツにもつ人が増えていくなかで、「日本国民統合の象徴」しての天皇のありかたは、どうあるべきなのでしょうか。その点で平成29年9月に私的ご旅行という名目で天皇・皇后が埼玉県の高麗神社に参拝し、桓武天皇の生母のことから天皇にも韓国系の血が流れていると述べられたことには重要なメッセージが込められていると思われます。今後の天皇と皇室は、ボーダーレス化する国際社会において平和と共存の象徴であることを求められるからです。


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尊王攘夷論は江戸時代中ごろに国史への関心が高まって生まれた 

忘れられていた『古事記』が再発見され、古代神話が復活した。(『図解・天皇と皇室入門』より)

図解天皇p72-73

水戸学と国学
尊王(尊皇)意識が高まってきたのは江戸時代の中ごろからでした。それには2つの流れがあります。水戸学と国学です。

水戸学は今の茨城県水戸市の徳川家でおこりました。2代藩主の徳川光圀が国史の編纂をはじめて以来、水戸徳川家では連綿と国史を研究し『大日本史』という長大な史書を編みつづけ、江戸時代後半には藩校の弘道館を中心に尊王論が発達しました。藩校は儒学によって、主君への「忠」を家臣の子に教えることを主とします。「忠」の直接の対象は藩主、さらには将軍なのですが、将軍が天下を治める大義は天皇から政治をあずかっていること(大政委任)に求められました。水戸は徳川将軍家の中核の御三家のひとつですから、その影響は全国におよび、藩校の弘道館には各地の藩から武士が訪れました。長州の吉田松陰も薩摩の西郷隆盛も水戸を訪れました。

江戸中期には町人などの民間でも歴史への関心が高まり、国学とよばれる学問が生まれました。その代表的な学者が伊勢松坂(三重県松阪市)の医師、本居宣長でした。宣長は『古事記』を研究し、松坂に開いた私塾(鈴屋)で門弟に教えました。それによって、ほとんど忘れられていた『古事記』が再発見され、高天原の神々にはじまる神話が復活しました。そして平田篤胤らによって復古神道も生まれました。日本では神仏習合し、伊勢神宮の天照大神も仏の化身だといわれるようになっていたので、仏教が伝わる以前の神々のまつりを復旧しようというのが復古神道です。

攘夷論の高まり
水戸学は儒学を重んじ、国学は儒学も外国のものだとして否定する違いはありましたが、天皇中心の歴史観、いわゆる皇国史観に立つこと、仏教は排除することでは共通でした。何より重要な共通点は、仏教が伝来する以前の日本は純粋な神々の国(神州)で、天皇をいただいている以上は今も日本は神州だということでした。そこに「尊王攘夷」という考え方が生まれました。

「攘夷」とは「夷人(外国の野蛮な人々)を追い攘う」という意味です。19世紀にロシア、アメリカ、イギリスなどの船が次々に来航して日本に開国を求めるようになると、異国船が近づいてきたら沿岸で打ち払うべきだという攘夷論が高まりました。外国人の上陸をゆるして神州日本の国土を穢させてはならないというのですが、当時は西洋の国々が競争してアジアにも植民地を拡大していた時代です。それに対する恐怖や不安も攘夷論を高めたのでした。


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明治天皇は文明開化を象徴し帝国憲法で「臣民」に君臨した 

「近代・現代の天皇1」『図解・天皇と皇室入門』より)

文明開化・富国強兵が国の目標になったころ、天皇がそれを率先した。

図解天皇p74-75

文明開化・富国強兵の世に
 尊王攘夷をスローガンに江戸幕府をたおした明治新政府は、一転して開国路線をとりました。じつは攘夷にも小と大があるという考え方がありました。国情を無視してむやみに異国船打払を実行するのは小攘夷、ひとまず開国しても国力・兵力を強化して異国排除をめざすことを大攘夷といいます。そこで文明開化・富国強兵が明治日本の目標になりました。そして欧米諸国に学ぶため、1871年(明治4)から73年にかけて岩倉具視・大久保利通ら政府首脳が欧米諸国への視察に出かけました。その使節団の一員に、のちに大日本帝国憲法を制定するための会議である枢密院の議長になる伊藤博文がいました。

 帝国憲法はイギリスなどにならった立憲君主制の憲法です。君主(王)といえども憲法にしたがう国のしくみなのですが、伊藤博文は日本では国民全体をまとめられる存在は天皇のほかにないとして、枢密院の意見を「憲法大綱領」にまとめました。その第1項は「憲法は欽定の体裁を用いる」です。欽定とは「君主による制定」という意味で、天皇が定めて天皇が布告するということです。

 憲法の制定は板垣退助らの自由民権運動に政府がおされた面もありますが、明治政府は早い時期から憲法制定を見越していました。1872年(明治5)に国民皆兵の「徴兵告諭」を布告するにあたって、将来は憲法を制定して国民を結集することを決めました。その国民結集のために定められたのが欽定の帝国憲法で、1889年(明治22年)に発布、翌年11月に帝国議会開会。それによって左図の近代日本の国家のしくみがつくられました。

 帝国憲法の第1条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」です。古代から続いてきた天皇が日本を治めるという意味ですが、第4条には「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と定められています。天皇は日本の元首で国家の政治全体を見るけれども、この憲法の定めていることには従わなければならないということです。

 現在の日本国憲法との大きな違いのひとつは国民が「臣民」すなわち、天皇の臣下とよばれていることです。それまで臣下は貴族や朝廷の役人だけのことでしたが、国民のすべてが臣下となり、国民は熱狂して、この憲法をうけいれました。
いっぽう、天皇・皇族は臣下ではないので憲法の適用をうけず、別途、皇室内の規則として皇室典範が天神地祇と皇祖・歴代天皇の霊に誓う形で定められました。


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後白河法皇も平清盛も源頼朝も法華堂に眠る 

霊の鎮まる法華堂(角川ソフィア文庫『全品現代語訳 法華経』「法華経の小事典」よりより)

 平清盛は源平合戦がつづく治承五年(一一八一)に京都の六波羅で没した。『平家物語』巻第六「入道死去」の段は、 清盛は「供養はいらない。頼朝の首を我が墓前に架けよ」と遺言したと語る。しかし、『吾妻鏡』「入道平相国薨ず」では、まったく異なる遺言を伝える。

「三ヶ日より以後に葬りの儀あるべし。遺骨においては播磨国山田の法花堂(神戸市)に納め、七日ごとに形のごとく仏事を修すべし。毎日これを修すべからず。また京都において追善を成すべからず。子孫はひとへに東国帰往の計を営むべし」

 建久三年(一一九二)三月、源平合戦の動乱の世を生き抜いた後白河法皇が崩じた。院の御所だった法住寺(京都市東山区)の法華堂で法要がいとなまれ、遺体はその床下に埋葬された。法住寺は平清盛が後白河法皇のために蓮華王院(三十三間堂)を建てた寺である。

 建久十年(一一九九)一月には頼朝が死没。翌年の一周忌には鎌倉の法華堂で盛大に法要がいとなまれたことが記されている。本尊は釈迦三尊絵像、経は金字法華経、導師は臨済宗の栄西だった。
 平安時代から鎌倉時代にうつる動乱の世の三人の主役といえる後白河法皇、平清盛、源頼朝は皆、法華堂に葬られた。法華堂の本尊や形式に決まりはないが、日々に法華経を読誦して供養した仏堂である。

 ちなみに、京都深草の深草法華堂は火葬された天皇の遺骨を納めた仏堂で、鎌倉時代の後深草天皇(一三〇四年崩御)から江戸時代初期の後陽成天皇(一六一七年崩御)まで十二人の天皇が眠る。そのため、古典文献には「深草法華堂」という名がしばしば見られる。幕末から明治にかけての天皇陵の整備と神仏分離によって深草北陵とよばれるが、今も外見は仏堂様式である。

深草北陵(画像はクリックで拡大します)
深草北陵 もとは深草法華堂といった。後深草、伏見、後伏見、北朝の後光厳、北朝の後円融、後小松、 称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の12人の天皇の陵であることから「十二帝陵」ともいう。(京都市伏見区)

全品法華経大 『全品現代語訳 法華経』

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皇族に恋愛の自由はあるのだろうか 

親王・内親王など皇族の婚姻は国民的な大ニュース。以下は『図解・天皇と皇室入門』のうち、そもそも「皇族とはどんな人?」の項(皇族とは男系の血すじでつながる天皇の子や孫の方々)より「皇族の結婚と離婚」の部分です。これは現在の「皇室典範」によります。

皇族の男子の婚姻は皇室会議で了承されなければなりません。皇族の女子の婚姻にその規定はありませんが、皇籍を離れることは皇室会議の議論にふされるので、やはりまったく自由ではありません。離婚して皇籍を離れるときも同様です。
この点で皇族には、日本国憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」という基本的人権にかかわる規定があてはまりません。皇族に恋愛の自由があるのかは議論の余地のあるところですが、いずれにせよ、一般の国民のようなわけにはいかないのが皇族の婚姻です。

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皇族とは男系の血すじでつながる
天皇の子や孫の方々

大田天皇p22
大田天皇p23

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「図解・天皇と皇室入門」発刊のお知らせ 

もしも皇族に生まれたら 天皇と皇族の一生 誕生から葬儀まで
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「図解でわかる14歳からの」シリーズで「天皇と皇室入門」が発売されました。

天皇譲位 そこにはこの国の根幹にかかわる問題が介在している。


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監修いただいた山折哲雄先生の序です。

憲法第一条の「象徴天皇」と第九条の「戦争放棄」は一体不可分である。
大田天皇p04

大田天皇p05

以下、目次です。
i太田天皇p02

大田天皇p03

既刊『天皇家のお葬式』(大角修)
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角川ソフィア文庫『全品現代語訳 法華経』 

「はじめに 法華経をどう読むか」につづいて本書の経緯を書いた「おわりに 経典の霊性 」をアップします。

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「はじめに」で述べたように、本書は『[図説]法華経大全』(学習研究社・二〇〇一年刊)を文庫版に改めたものです。無量義経・観普賢菩薩行法経の抄訳を加えたほか、日本の法華信仰をふまえた解説を拡充しましたが、経文の現代語訳はほぼ前著を踏襲しています。

『[図説]法華経大全』は幸い多くの方に御購読いただきました。読者の反響のうち、もっとも驚いたのは偈だけ拾って読んだという方がいたことです。
 本書の偈はあらかじめ現代語に改めたうえで短く再構成したものです。それにしても、漢字だらけの語句が難解な印象を読者に与えるのではないかと危惧し、前書きで「偈の内容は本文の繰り返しであるから、飛ばして読んでいただいてもさしつかえはない」とことわっておいたのですが、逆に偈だけ読んだという人がいたのは、じつに驚きでした。

 さらに、偈の部分をコピーして自分で経巻のようなものをつくり、寝る前にベッドで読んでいるという方までありました。法華経から経文を抜粋して読誦用の経巻にした本も市販されているのですが、それは仏前で読むための造りなので、ベッドで読むのは気がひけるからでしょう。
 これらは私にとって嬉しい反応でした。というのは、法華経を現代語に改めるにあたってもっとも気をつかったのは「聖典を貶めない」ということだったからです。経文の意味はよくわからなくても、なんとなく有難いというところに経典の霊性というものの実際があります。

 その点で、漢語の文字と響きに勝るものは今もありません。日本の仏教文化と信仰は漢訳経典に依拠して培われたものなので、今日でも読経に現代語訳が用いられることはなく、漢訳経典に代わりうるものはないのです。

 この漢訳経文を崩しすぎると、言葉の力は失われ、聖典を貶めることになりかねません。それで本文中に偈を残したのですが、もとの経文ではたいへん長い偈があるので、漢詩程度の短さに圧縮しました。ただ、よく読誦される如来寿量品と観世音菩薩普門品の偈は真読(漢文のまま)と訓読の全文を掲載しました。
 もうひとつ気をつかったのは、言葉のイメージを新鮮なものにできるかという点でした。原文を正確に現代語に改めるだけでは、その言葉がもつイメージのふくらみがなく、結局、何のことかわからないことになります。といって、ひとつの語句にどんなイメージをもつかは個人差が大きいので、どういう表現がいいのかはわかりません。私が参考にしたのは宮沢賢治の童話「雁の童子」でした。前著『法華経大全』で現代語訳したときには「雁の童子」の朗読CDをくりかえし聞きました。315ページの「道場観と宮沢賢治の『雨ニモマケズ』」、383ページの「陀羅尼と祈り」で宮沢賢治にふれたのも、そういう事情からです。

 賢治は『雨ニモマケズ手帳』に「法華文学ノ創作」というメモをのこしているので、その作品を「法華文学」というなら、童話では「雁の童子」、詩では『春と修羅』補遺の〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕をもっとも「法華文学」らしい作品としてあげたいと思います。
「雁の童子」は、西域の流沙という町の南の小さな泉のほとりで若い巡礼と年老いた巡礼の二人が出会って話すところから始まります。
 その泉のそばに建っている新しい小さな祠のことを若い巡礼が「あのお堂はどなたをおまつりしたのですか」とたずね、老巡礼が「童子のです。(中略)雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃あった昔ばなしのようなのです」と雁の童子の物語を、こんなふうに語りはじめます。

 ある明方、須利耶すりやさまが鉄砲をもったご自分の従弟の方とご一緒に、野原を歩いていられました。地面はごく麗わしい青い石で、空がぼおっと白く見え、雪もま近でございました。(『宮沢賢治コレクション4』筑摩書房・二〇一七年/以下同じ)

 須利耶さまは流沙で写経を生業としてくらしています。その町の「地面はごく麗わしい青い石で」というあたりは仏の国の瑠璃の大地を思わせます。ところが、その従弟は鉄砲で雁を撃つことが楽しいという悪い人です。その悪い人が「従弟の方」「お従弟さま」と敬語でよばれていて、いつか天王如来という仏になるという提婆達多を思わせます。そして、老巡礼の話がおわったあと、この童話はこのように結ばれます。

「尊いお物語をありがとうございました。(中略)ほんの通りかかりの二人の旅人とは見えますが、実はお互いがどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝スガタの示された光の道を進み、かの無上菩提ぼだいに至ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」
 老人は、黙って礼を返しました。何か云いたいようでしたが黙って俄かに向こうを向き、今まで私の来た方の荒地にとぼとぼと歩き出しました。私も又、丁度その反対の方の、さびしい石原を合掌したまま進みました。

「善逝の示された光の道を進み、かの無上菩提に至る」というところは直接的に法華経の内容につながりますが、そのほかにも、法華経を暗示させるところがたくさんあります。だからといって、それが法華経によると言って法華経に引き戻してしまったら、賢治のファンタジックな作品世界は壊れてしまいます。

 日蓮で言うなら「文底秘沈もんていひちん」です。大事な法門は法華経の文の底に秘かに沈めおかれているというのです。その秘密の法門には、経文の文字面を読むだけでは入ることができません。賢治も、その作品の表面から法華経を秘匿することによってイメージの広がりをもたらし、より深く法華経の世界を突きつめたのだと思われます。
 本書では、古典文学の和歌や今様、霊験譚などを多くとりあげました。そこには理屈を超えて、法華経の世界があらわされているからです。

遺したい言葉 

『日経おとなのOFF』5月号の特集「私たちは100歳までどう生きるか?」が発売されました。この特集の「〈辞世の言葉〉で学ぶ死との向き合い方」というコーナーで相談をうけ、幾人かの言葉を上げました。

今も「辞世の句」をつくる人はいるようですが、死を覚悟しての言葉というのでは、きついでしょう。

そこで、「どんな言葉を遺して世を去りたいですか?」と問うなら、おそらく圧倒的に「ありがとう」ではないでしょうか。少なくとも怨みの言葉は遺したくないよね、ということで、冒頭に『万葉集』にある大津皇子の歌をあげました。

大津皇子は謀反の罪を着せられて24歳で処刑されました。その死を前にして居所の近くの磐余いわよの池に遊ぶ鴨を詠んだのが次の歌です。

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」

自分は死んでいくけれど、池の鴨は明日も鳴いているだろう、といった感傷の歌ですが、無実の罪で処刑されるというのに、まったく怨みが感じられせん。

記事の最後は宮沢賢治の絶詠二首のうち「方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭り三日そらはれわたる」をあげました。

ペシミスティックな作品が多い近代の文学者の中で、賢治はすばらしい讃歌を多くつくりました。37歳で病死して絶筆となった「「方十里」の短歌も「み祭り三日そらはれわたる」という明るさがすばらしいと思います。

そして、このコーナーは、先ごろ105歳で亡くなられた日野原重明医師の「キープ オン ゴーイング」で締めくくりとさせていただきました。

日経オフ表紙

『日経おとなのOFF』5月号の特集「私たちは100歳までどう生きるか?」

「〈辞世の言葉〉で学ぶ死との向き合い方」(部分)
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3月25日に発刊されました。(大角 修)
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『全品現代語訳 法華経』発刊 

角川ソフィア文庫で掲題の著書が発刊されました。既刊『法華経大全』の文庫化ですが、妙法蓮華経の前後に無量義経と観普賢経の抄訳を加えて法華三部経十巻全三十二品の現代語訳です。
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また、コラム解説を拡充し、特に日本の法華文化の解説を加えました。昨今、サンスクリット原理主義がますます強まり、日本の歴史と文化への理解が欠落していると思われるからです。

以下、「はじめに 法華経をどう読むか」の一部です。


 日本での法華信仰は、平安時代には浄土教や密教、神祇とも融合して民衆にも広まりました。その法華信仰を土壌として鎌倉時代には日蓮があらわれ、「南無妙法蓮華経」の題目を本尊とする法華宗(日蓮宗)をひらきました。

今日、日蓮系の伝統諸宗のほか在家信仰団体が数多くあります。そのほか、天台宗はもちろん、真言宗や禅宗でも法華経は重視されます。なにより、和歌や物語、芸能などに法華経は宗派をこえて深く浸透しています。

 サンスクリット経典と漢訳経典
 法華経は古代インドにおいて典礼言語のサンスクリットで記された経典です。日本では西域出身の四〜五世紀の僧=鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が漢訳した『妙法蓮華経』が飛鳥時代から使われています。
 この法華経をはじめ、漢訳経典が日本の歴史と文化に与えた影響には計り知れないものがあります。
今の日常語にも、人間・世界・観念・大衆など、もとは経典の言葉が非常に多いのですから、それらがなければ、そもそも日本語がなりたちません。
 にもかかわらず、日本史や古典文学の研究者にさえ、経典はあまり読まれていないようです。よく「聖書は一冊だけれど仏教経典は数が多すぎる」といわれますが、日本の歴史と文化に大きな影響のあったものだけにかぎれば、それほど多いわけではありません。なかでも法華経は、もっとも基本の経典です。それくらいは読んでおかないと、聖書も読まないで欧米の歴史や文学を語るに等しいことになります。

 しかしながら、経典があまり読まれなくなったことには理由があります。
 ひとつは明治時代の西洋思想の流入をきっかけに日本の仏教は無知蒙昧なものとされ、釈迦や宗祖の本来の教えにもどるべきだという啓蒙主義仏教の運動がおこったことです。
さらに、太平洋戦争の敗戦後、日本の伝統文化や風習の全否定に近い動きがありました。日本語の表記は漢字を全面的に廃止してローマ字表記に改めるべきだという論議もあったくらいです。
そして歴史の記述はもっぱら政治・経済の視点から社会の変化をたどるものとなり、実際には大きな実勢力だった寺社の動きは無視されて、せいぜい「○○時代の文化」という項目でふれられる程度になりました。
礼拝の対象であるはずの仏像も美術・工芸品として鑑賞されるようになり、古典文学の解釈でも人間の心理に重点がおかれて神仏への視座は失われました。これでは経典の知識は不要になります。

 それでも経典を読んでみようとする人は多い。近年は植木雅俊訳『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(岩波書店・二〇一五年)など、読みやすく表現された翻訳書も刊行され、経典になじみのない方でも手にとりやすくなりました。サンスクリット経典は、漢訳される以前の内容がどうであったのかを知るうえでも重要です。

 しかし、サンスクリット経典からの訳では二つの点で見落とされることがあります。ひとつは、前述したような日本の歴史と文化が欠落してしまうことです。もうひとつは、思想・教義の探求に力点がおかれて、祭儀のなかで唱えられたであろう法華経の性格、いわゆる儀礼テクストとしての経典の意味が無視されがちなことです。それを無視すると、法華経の内容はもちろん、読経したり写経したりする意味もわからなくなります。


以下、目次です。
法華経004法華経006

以下、「はじめに 法華経をどう読むか」
法華経008

法華経010

法華経012

法華経014

法華経016

法華経018

法華経020

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