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しばらく
長らく更新が途絶えました。まもなく再開の予定です。またねよろしくお願いします。
- [2012/02/28 15:03]
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空海と真言密教の仏像
仏像探訪 第2号『空海と真言密教の仏像』 (エイムック) に寄稿しました。といっても、6月刊。なかなか好評のようです。今回は東京国立博物館で9月25日まで開催していた空海展にあわせての企画です。
寄稿の一部を紹介します。
醍醐の花見をきっかけに
五重塔修造・諸堂再建
戦国時代は織田信長・豊臣秀吉の天下統一によって終わる。その時期を安土桃山時代というのは信長の安土城、秀吉の伏見桃山城の名による。
秀吉が伏見城を造ったのは1592(文禄元)年。ときに56歳の秀吉は隠居所として伏見城を造ったのだが、それは挫折におわる朝鮮出兵開始の年であった。さらに翌年、側室の淀殿が秀頼を出産すると、秀吉は豊臣の天下を秀頼に譲るためには楽隠居というわけにはいかなくなった。
秀頼は母の淀殿とともに大坂城で育つ。秀吉は要衝の地の伏見城を堅固な城塞に造り替えて諸大名をおさえ、秀頼の成長を待った。
ところが、1595(文禄5)年閏7月13日未明、畿内で大地震があり、伏見城は倒壊。「男女御番衆(城詰めの人)多数死、その数いまだ知らず」という。
これは時の醍醐寺座主の義演が日記に書いていることだ。『義演准后日記』という貴重な史料で、国の重要文化財である。
醍醐寺は被害が少なかったが、応仁の乱で焼かれて以来、堂宇の多くはいまだ再建されず、境内は荒れていた。大地震でも倒壊をまぬかれた五重塔も傷みは激しかった。
いっぽう秀吉は京都の聚楽第を解体して資材を伏見に運び、城の再建にかかった。その工事が完成に近づいた1597(慶長3)3月、秀吉は徳川家康を誘って醍醐寺を訪れた。『義演准后日記』によれば突然のことだったらしい。
その秀吉の目に、歳月をへて傷み、いままた大地震に揺さぶられて傾いた五重塔が映った。また、醍醐寺は古くから桜の名所で鎌倉・室町時代には桜会とよばれる法会が舞楽・雅楽を奉納してにぎにぎしく営まれていたのだが、その桜の木々も乏しくなっていた。
秀吉はこの五重塔をはじめ、三宝院など諸堂の再建を義演に約した。また、下醍醐から上醍醐にいたる道に桜を移植し、盛大に花見を営むことにした。翌春3月15日、道わきに大名らが茶屋などをしつらえ、大坂城から淀殿など一族を招いて華々しく花見がおこなわれた。世にいう醍醐の花見である。
秀吉が死んだのは、その花見のわずか五月後の8月のことだった。以後、醍醐寺再建は秀吉の遺命として秀頼に託され、如意輪堂・五大堂などが再建された。
ところで、秀吉が造った伏見城は徳川家康の畿内での居城となったが、洛内に二条城が造られたため、1619(元和5)年に廃城となった。その場所は、現在の伏見城からは少し離れた場所で、明治天皇の伏見桃山陵がある小山である。家康の伏見城の跡には数十万本という桃が植えられた。ために、桃山と呼ばれるようになったのである。



- [2011/09/27 20:29]
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マイケル・サンデル教授の言葉遊び
金曜日の22時から1時間余のNHKスペシャル番組「マイケル・サンデル 究極の選択」というのを見ました。ハーバード大学熱血授業の延長で、日米中の大学生を中継で結んでのディベート。今回のテーマは「テロ」でビンラーディンは殺しても正義か、テロリストに乗っ取られた旅客機を撃墜するのは正義か、アフガンで偵察隊が農民に出会ったとき、通告されるのを防ぐために殺していいかといったことでした。
マイケル・サンデル教授が倫理の問題をポピュラーなものにした功績は大ですが、例によって御自身の意見は何も言わずに終わってしまうスタイルは、教師としてコアな部分の責任を放棄しているようで、だんだん内容の軽さが鼻についてきていましたが、今回はひどい。とうとう、やってしまったか、という感じです。
いずれも実話をもとにした話で、思考実験というにはあまりに重い。それをニコニコと話すサンデル教授には、しょうじき、腹が立ってきましたね。
アフガンで偵察の任務を帯びた4人の特殊部隊は結局、農民を殺さずに解放し、彼らが通報したかどうかはわからないけれど、攻撃されて3人が死亡、救出にきたヘリ部隊も10数人が死亡するという悲劇でした。
中国の学生が言っていたけれど、このさいアメリカが引き上げることを考えるべきで、そんな事態を引き起こした責任も問われなければなりません。サンデル教授の問題提起は、状況を無視してプッツン、プッツンと単独に考えるもので、これは危険です。
最後にテロリストを死刑に処すのは正義かどうか。これもねえ、テロリストの処刑と一般の殺人事件等についての死刑制度の是非を同列に論じるのは、もはや言葉遊び以外の何ものでもないですね。
NHKはそろそろサンデル教授でスペシャル番組を作るのを止めたらどうでしょうか。
ちょっと風邪をひいて1日だけ更新を休もうと思ったら、3か月以上になってしまいました。その間にも多くの方に訪問いただいたことに感謝します。
- [2011/09/25 22:35]
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学研ムック『ブッダを知りたい』発刊
手塚治虫原作のアニメ『ブッダ』の封切りを機にブッダ本が相次いで刊行されている。学研ムック『ブッダを知りたい』(猊挧楾┫峠ぁ砲癲△海竜,鉾刊された。以下は、私の寄稿部分の一部です。
なお、拙著『ブッダと神々の物語』(仮題)を刊行予定でしたが、すこし執筆が遅れています。お待ちください。
2011年6月9日刊 650円
砂曼荼羅はチベット仏教の大きな法会のときに造られる。鮮やかな赤・緑・青などに染めた石英の砂で造られる曼荼羅だ。細かく幾何学的に色分したところに諸仏諸尊(仏や菩薩、神々など)を象徴する文字や模様が砂で描かれる。
曼荼羅の起源のひとつには、インドのヒンドゥー教の儀式で神々を招き寄せる土壇をマンダラとよんだことがある。仏教で多くの諸仏諸尊(仏や菩薩、神々など)を描きこんだ図画を曼荼羅というのも諸仏諸尊の集会を表わすものだからだ。
諸仏諸尊の集会は、宇宙の万物の成り立ちを示すものでもある。太陽の輝きや季節のめぐり、作物の稔りなど、全ては仏や神々の働きによって成り立っている。そのことが修行者たちの瞑想と種々の行法を通して探究され、諸仏の神秘が経典に記して伝えられた。なかでもインド仏教の後期に秘密仏教すなわち密教が発展するなかで、諸仏の秘密が探られた。そして、最初の本格的な密教経典である『大日経』が七〜八世紀頃に編まれた。
『大日経』の世界を図示した曼荼羅は胎蔵界とよばれるが、くわしくは大悲胎蔵生曼荼羅といい、宇宙根源の仏である大日如来の大いなる慈悲の胎内から生じた世界であるという。ついで大日如来の九つの集会の場面が説かれた『金剛頂経』が編まれ、それによって金剛界曼荼羅が描かれた。
胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅は空海が唐からもたらし、日本では曼荼羅の代表的なものになっているが、インドでは、それ以降に密教が非常に発達し、タントラとよばれる密教経典が多く編まれた。『秘密集会タントラ』『カーラチャクラ(時輪)タントラ』などだ。
それらのタントラはチベットに伝えられ、さらにラマ(チベット仏教の聖僧)たちの瞑想によって数多く曼荼羅が造られた。寺院そのものも立体の曼荼羅であり、内部におびただしい仏像が祀られている。
しかし、どんなに壮麗な寺院でも、どんなに精緻に描かれた曼荼羅図でも、諸仏の神秘の究極のところは示すことはできない。むしろ、平面的な幾何学紋様の砂曼荼羅のほうが、諸仏の宇宙をよく示している。
砂曼荼羅の全体を包む円形は仏塔を示し、その内側の四方形は万物を支配する仏の王城を象徴している。その上の虚空に、極彩色の仏塔と仏の宮殿がそびえているのだ。そして法会が終わると砂曼荼羅は跡形もなく崩されてしまうが、それによって諸仏は姿形はなく虚空に満ちているという本来の意味が示されるのである。
さまざまな言い伝え
シャーキャの王子ゴータマ・シッダールタがブッダ、すなわち釈迦牟尼仏になったことには、どんな因果律が働いているのか。それは今生の修行だけで成就されたことではあるまい。
釈迦の滅後、修行者たちはそのことに思索を深めて過去・現在・未来の永劫の時にわたるブッダの物語を語り伝え、経典にも記された。
たとえば、釈迦の前世の物語を集めた『ジャータカ(本生経)』に、遠い過去のディーパンカラ(燃燈仏)という仏の世にスメーダというバラモンの修行者がいたという。燃燈仏が弟子たちと遊行したとき、道がぬかるんでいるところがあった。スメーダは泥の中に身を伏せて、仏の一行を渡そうとした。そのとき燃燈仏は、スメーダは未来にゴータマ・ブッダになるであろうと告げたということである。
また『法華経』の「化城喩品(幻の城の章)」では釈迦如来の前世がこのように語られている。
無量無辺百千万億の劫のかなたの過去の世に大通智勝仏の世があった。この仏は、出家する以前に王だったとき、十六人の王子がいた。十六王子は仏になった父から教えを受けて修行し、東西南北その他の十六方の世界で、それぞれ仏になった。釈迦は十六王子の末子であった。そして、西方で仏になったのが阿弥陀仏である。
阿弥陀仏は、また、『無量寿経』には遠い過去の世自在王仏の世に国王であったが、王宮を捨てて法蔵という名の修行者になり、自身が仏になって極楽という仏の国を造ったのだという。
そのように仏は数多く過去も現在も、あらゆる方角に無数に存在すると説かれる。いっぽう、釈迦牟尼仏の滅後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が地に下って仏になるまでは世に仏がいない無仏時代で、地蔵菩薩が仏に代わって人々を救うともいう。
伝承は一定ではない。時空のかなたに思索の感覚を伸ばして語り出されたことだから、いろいろなことが伝えられている。そのなかで過去七仏の伝承は、とりわけ壮大な物語である。
過去七仏
万物は流転していく。宇宙そのものも、四劫とよばれる四つの時期をへて流転する。万物が生成される成劫、それらが安定して維持される住劫、このとき人の寿命は何万年にも延びる。しかし、次の壊劫には万物が衰退し、人の寿命も縮んでいく。そして生滅の空劫が訪れて、次に生成の力が発動されるまでは何も存在しない。
諸仏は、この流転の宇宙において出現する。人の寿命が数万年に及んだ過去荘厳劫という遙かな時期には千仏が現れた。その最後の三仏を毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏という。
次に現在賢劫にも千仏が現れる。その最初が倶留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・ 釈迦牟尼仏の四仏であった。
さらに未来星宿劫にも千仏が現れるというのだが、そのなかで倶留孫仏から釈迦牟尼仏にいたる諸仏を過去七仏とよび、ゴータマ・ブッダが世に現れた理由として伝えられている。インドの仏教遺跡にも七仏像があるので古くから語られてきた伝承である。
(スジャーターの乳粥の鉢
ゴータマ・シッダールタの伝記のなかにも過去七仏の伝承を折り込んだ話がある。シッダールタが六年間の苦行の後、川辺でスジャーターという娘から乳粥の供養を受けたときのことだ。乳粥は黄金の鉢に盛って捧げられたのだが、シッダールタは乳粥を四十九個の団子にして持っていくことにし、鉢は川に浮かべた。
すると不思議なことに鉢は流れに逆らって川を上り、竜王の住む淵に行き着いた。そこには過去に仏になった者が同様に流した鉢があり、シッダールタの鉢はそれにこつんとぶつかった。先に流れついていた鉢は六つとも、現在賢劫の仏の三つともいう。いずれにせよ、このとき過去の諸仏の法がシッダールタに受け継がれたのである。
(中略)
いろいろな教えのうち、過去の諸仏が等しく伝えてきたという戒めの言葉が次の「七仏通誡偈」だ。
諸悪莫作(いろいろな悪をなすことなく)
衆善奉行(多くの善を行なって)
自浄其意(自ら心を清めなさい)
是諸仏教(これが諸仏の教えです) この言葉は日本だけでなく、東南アジアでとくに重視され、世界の仏教界で大切にされている教えである。
- [2011/06/01 18:03]
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良寛の歌集『ふるさと』を読む32 寒夜の物乞いを哀れむ
歌集『布留散東ふるさと』第53首には次の詞書がある。
神無月かんなづきのころ、旅人の簑みの一つ着たるが門かどに立ちて物乞ひければ古着ぬぎて取らす さてその夜 嵐のいと寒く吹きたりければ
たが里に旅寝しつらむぬばたまの
夜半よはの嵐のうたて寒きに(第53首)
この歌については、ふたたび『ひとりで生きる道』から再録する。
良寛は夢に由之が現れるほど、由之のことを気にかけていた。(中略)
さらに第五十三首では、旅の物乞いに思いを寄せる。秋が深まる神無月(十月)のころ、蓑をひとつだけ着た旅人が門口に立って物乞いするので、自分が着ていた古着をぬいで与えた。そんな古着で寒さを防げるはずがない。その夜、嵐がたいへん寒々しく吹いたので、旅の物乞いが気にかかり、「たが里に旅寝しつらむぬばたまの 夜半の嵐のうたて寒きに」と詠んだ。
異郷で旅寝をする人には夜半の嵐はいっそう寒いであろうという。由之は所払いになったとはいえ、助けてくれる縁戚や俳諧の知己が各地にいた。物乞いをして旅路に眠るこの人は、おそらく、たったひとりきりであろう。
この後に良寛は第六首の岩室の松の木を再度とりあげる。そして、あの取る人もない「鉢の子」の歌で『布留散東』を結ぶ。
岩室の野中に立てる一つ松の木けふ見れば 時雨の雨に濡れつつ立てり 57
鉢の子をわが忘るれども取る人はなし 取る人はなし鉢の子あはれ 61
人はそれぞれ、ひとりで生きるほかにない。しかし、それぞれがひとりであるところから他の人を愛しく思える共感が生まれる。
良寛はひとりでいて、そして悲しく人びとを思うのだった。
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地図「良寛の足跡」
著書 良寛『ひとりで生きる道』へ
(大角修)
- [2011/05/29 11:47]
- 海の良寛 |
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