尊王攘夷論は江戸時代中ごろに国史への関心が高まって生まれた 

忘れられていた『古事記』が再発見され、古代神話が復活した。(『図解・天皇と皇室入門』より)

図解天皇p72-73

水戸学と国学
尊王(尊皇)意識が高まってきたのは江戸時代の中ごろからでした。それには2つの流れがあります。水戸学と国学です。

水戸学は今の茨城県水戸市の徳川家でおこりました。2代藩主の徳川光圀が国史の編纂をはじめて以来、水戸徳川家では連綿と国史を研究し『大日本史』という長大な史書を編みつづけ、江戸時代後半には藩校の弘道館を中心に尊王論が発達しました。藩校は儒学によって、主君への「忠」を家臣の子に教えることを主とします。「忠」の直接の対象は藩主、さらには将軍なのですが、将軍が天下を治める大義は天皇から政治をあずかっていること(大政委任)に求められました。水戸は徳川将軍家の中核の御三家のひとつですから、その影響は全国におよび、藩校の弘道館には各地の藩から武士が訪れました。長州の吉田松陰も薩摩の西郷隆盛も水戸を訪れました。

江戸中期には町人などの民間でも歴史への関心が高まり、国学とよばれる学問が生まれました。その代表的な学者が伊勢松坂(三重県松阪市)の医師、本居宣長でした。宣長は『古事記』を研究し、松坂に開いた私塾(鈴屋)で門弟に教えました。それによって、ほとんど忘れられていた『古事記』が再発見され、高天原の神々にはじまる神話が復活しました。そして平田篤胤らによって復古神道も生まれました。日本では神仏習合し、伊勢神宮の天照大神も仏の化身だといわれるようになっていたので、仏教が伝わる以前の神々のまつりを復旧しようというのが復古神道です。

攘夷論の高まり
水戸学は儒学を重んじ、国学は儒学も外国のものだとして否定する違いはありましたが、天皇中心の歴史観、いわゆる皇国史観に立つこと、仏教は排除することでは共通でした。何より重要な共通点は、仏教が伝来する以前の日本は純粋な神々の国(神州)で、天皇をいただいている以上は今も日本は神州だということでした。そこに「尊王攘夷」という考え方が生まれました。

「攘夷」とは「夷人(外国の野蛮な人々)を追い攘う」という意味です。19世紀にロシア、アメリカ、イギリスなどの船が次々に来航して日本に開国を求めるようになると、異国船が近づいてきたら沿岸で打ち払うべきだという攘夷論が高まりました。外国人の上陸をゆるして神州日本の国土を穢させてはならないというのですが、当時は西洋の国々が競争してアジアにも植民地を拡大していた時代です。それに対する恐怖や不安も攘夷論を高めたのでした。


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明治天皇は文明開化を象徴し帝国憲法で「臣民」に君臨した 

「近代・現代の天皇1」『図解・天皇と皇室入門』より)

文明開化・富国強兵が国の目標になったころ、天皇がそれを率先した。

図解天皇p74-75

文明開化・富国強兵の世に
 尊王攘夷をスローガンに江戸幕府をたおした明治新政府は、一転して開国路線をとりました。じつは攘夷にも小と大があるという考え方がありました。国情を無視してむやみに異国船打払を実行するのは小攘夷、ひとまず開国しても国力・兵力を強化して異国排除をめざすことを大攘夷といいます。そこで文明開化・富国強兵が明治日本の目標になりました。そして欧米諸国に学ぶため、1871年(明治4)から73年にかけて岩倉具視・大久保利通ら政府首脳が欧米諸国への視察に出かけました。その使節団の一員に、のちに大日本帝国憲法を制定するための会議である枢密院の議長になる伊藤博文がいました。

 帝国憲法はイギリスなどにならった立憲君主制の憲法です。君主(王)といえども憲法にしたがう国のしくみなのですが、伊藤博文は日本では国民全体をまとめられる存在は天皇のほかにないとして、枢密院の意見を「憲法大綱領」にまとめました。その第1項は「憲法は欽定の体裁を用いる」です。欽定とは「君主による制定」という意味で、天皇が定めて天皇が布告するということです。

 憲法の制定は板垣退助らの自由民権運動に政府がおされた面もありますが、明治政府は早い時期から憲法制定を見越していました。1872年(明治5)に国民皆兵の「徴兵告諭」を布告するにあたって、将来は憲法を制定して国民を結集することを決めました。その国民結集のために定められたのが欽定の帝国憲法で、1889年(明治22年)に発布、翌年11月に帝国議会開会。それによって左図の近代日本の国家のしくみがつくられました。

 帝国憲法の第1条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」です。古代から続いてきた天皇が日本を治めるという意味ですが、第4条には「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と定められています。天皇は日本の元首で国家の政治全体を見るけれども、この憲法の定めていることには従わなければならないということです。

 現在の日本国憲法との大きな違いのひとつは国民が「臣民」すなわち、天皇の臣下とよばれていることです。それまで臣下は貴族や朝廷の役人だけのことでしたが、国民のすべてが臣下となり、国民は熱狂して、この憲法をうけいれました。
いっぽう、天皇・皇族は臣下ではないので憲法の適用をうけず、別途、皇室内の規則として皇室典範が天神地祇と皇祖・歴代天皇の霊に誓う形で定められました。


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後白河法皇も平清盛も源頼朝も法華堂に眠る 

霊の鎮まる法華堂(角川ソフィア文庫『全品現代語訳 法華経』「法華経の小事典」よりより)

 平清盛は源平合戦がつづく治承五年(一一八一)に京都の六波羅で没した。『平家物語』巻第六「入道死去」の段は、 清盛は「供養はいらない。頼朝の首を我が墓前に架けよ」と遺言したと語る。しかし、『吾妻鏡』「入道平相国薨ず」では、まったく異なる遺言を伝える。

「三ヶ日より以後に葬りの儀あるべし。遺骨においては播磨国山田の法花堂(神戸市)に納め、七日ごとに形のごとく仏事を修すべし。毎日これを修すべからず。また京都において追善を成すべからず。子孫はひとへに東国帰往の計を営むべし」

 建久三年(一一九二)三月、源平合戦の動乱の世を生き抜いた後白河法皇が崩じた。院の御所だった法住寺(京都市東山区)の法華堂で法要がいとなまれ、遺体はその床下に埋葬された。法住寺は平清盛が後白河法皇のために蓮華王院(三十三間堂)を建てた寺である。

 建久十年(一一九九)一月には頼朝が死没。翌年の一周忌には鎌倉の法華堂で盛大に法要がいとなまれたことが記されている。本尊は釈迦三尊絵像、経は金字法華経、導師は臨済宗の栄西だった。
 平安時代から鎌倉時代にうつる動乱の世の三人の主役といえる後白河法皇、平清盛、源頼朝は皆、法華堂に葬られた。法華堂の本尊や形式に決まりはないが、日々に法華経を読誦して供養した仏堂である。

 ちなみに、京都深草の深草法華堂は火葬された天皇の遺骨を納めた仏堂で、鎌倉時代の後深草天皇(一三〇四年崩御)から江戸時代初期の後陽成天皇(一六一七年崩御)まで十二人の天皇が眠る。そのため、古典文献には「深草法華堂」という名がしばしば見られる。幕末から明治にかけての天皇陵の整備と神仏分離によって深草北陵とよばれるが、今も外見は仏堂様式である。

深草北陵(画像はクリックで拡大します)
深草北陵 もとは深草法華堂といった。後深草、伏見、後伏見、北朝の後光厳、北朝の後円融、後小松、 称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の12人の天皇の陵であることから「十二帝陵」ともいう。(京都市伏見区)

全品法華経大 『全品現代語訳 法華経』

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皇族に恋愛の自由はあるのだろうか 

親王・内親王など皇族の婚姻は国民的な大ニュース。以下は『図解・天皇と皇室入門』のうち、そもそも「皇族とはどんな人?」の項(皇族とは男系の血すじでつながる天皇の子や孫の方々)より「皇族の結婚と離婚」の部分です。これは現在の「皇室典範」によります。

皇族の男子の婚姻は皇室会議で了承されなければなりません。皇族の女子の婚姻にその規定はありませんが、皇籍を離れることは皇室会議の議論にふされるので、やはりまったく自由ではありません。離婚して皇籍を離れるときも同様です。
この点で皇族には、日本国憲法第24条の「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」という基本的人権にかかわる規定があてはまりません。皇族に恋愛の自由があるのかは議論の余地のあるところですが、いずれにせよ、一般の国民のようなわけにはいかないのが皇族の婚姻です。

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皇族とは男系の血すじでつながる
天皇の子や孫の方々

大田天皇p22
大田天皇p23

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「図解・天皇と皇室入門」発刊のお知らせ 

もしも皇族に生まれたら 天皇と皇族の一生 誕生から葬儀まで
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「図解でわかる14歳からの」シリーズで「天皇と皇室入門」が発売されました。

天皇譲位 そこにはこの国の根幹にかかわる問題が介在している。


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監修いただいた山折哲雄先生の序です。

憲法第一条の「象徴天皇」と第九条の「戦争放棄」は一体不可分である。
大田天皇p04

大田天皇p05

以下、目次です。
i太田天皇p02

大田天皇p03

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角川ソフィア文庫『全品現代語訳 法華経』 

「はじめに 法華経をどう読むか」につづいて本書の経緯を書いた「おわりに 経典の霊性 」をアップします。

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「はじめに」で述べたように、本書は『[図説]法華経大全』(学習研究社・二〇〇一年刊)を文庫版に改めたものです。無量義経・観普賢菩薩行法経の抄訳を加えたほか、日本の法華信仰をふまえた解説を拡充しましたが、経文の現代語訳はほぼ前著を踏襲しています。

『[図説]法華経大全』は幸い多くの方に御購読いただきました。読者の反響のうち、もっとも驚いたのは偈だけ拾って読んだという方がいたことです。
 本書の偈はあらかじめ現代語に改めたうえで短く再構成したものです。それにしても、漢字だらけの語句が難解な印象を読者に与えるのではないかと危惧し、前書きで「偈の内容は本文の繰り返しであるから、飛ばして読んでいただいてもさしつかえはない」とことわっておいたのですが、逆に偈だけ読んだという人がいたのは、じつに驚きでした。

 さらに、偈の部分をコピーして自分で経巻のようなものをつくり、寝る前にベッドで読んでいるという方までありました。法華経から経文を抜粋して読誦用の経巻にした本も市販されているのですが、それは仏前で読むための造りなので、ベッドで読むのは気がひけるからでしょう。
 これらは私にとって嬉しい反応でした。というのは、法華経を現代語に改めるにあたってもっとも気をつかったのは「聖典を貶めない」ということだったからです。経文の意味はよくわからなくても、なんとなく有難いというところに経典の霊性というものの実際があります。

 その点で、漢語の文字と響きに勝るものは今もありません。日本の仏教文化と信仰は漢訳経典に依拠して培われたものなので、今日でも読経に現代語訳が用いられることはなく、漢訳経典に代わりうるものはないのです。

 この漢訳経文を崩しすぎると、言葉の力は失われ、聖典を貶めることになりかねません。それで本文中に偈を残したのですが、もとの経文ではたいへん長い偈があるので、漢詩程度の短さに圧縮しました。ただ、よく読誦される如来寿量品と観世音菩薩普門品の偈は真読(漢文のまま)と訓読の全文を掲載しました。
 もうひとつ気をつかったのは、言葉のイメージを新鮮なものにできるかという点でした。原文を正確に現代語に改めるだけでは、その言葉がもつイメージのふくらみがなく、結局、何のことかわからないことになります。といって、ひとつの語句にどんなイメージをもつかは個人差が大きいので、どういう表現がいいのかはわかりません。私が参考にしたのは宮沢賢治の童話「雁の童子」でした。前著『法華経大全』で現代語訳したときには「雁の童子」の朗読CDをくりかえし聞きました。315ページの「道場観と宮沢賢治の『雨ニモマケズ』」、383ページの「陀羅尼と祈り」で宮沢賢治にふれたのも、そういう事情からです。

 賢治は『雨ニモマケズ手帳』に「法華文学ノ創作」というメモをのこしているので、その作品を「法華文学」というなら、童話では「雁の童子」、詩では『春と修羅』補遺の〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕をもっとも「法華文学」らしい作品としてあげたいと思います。
「雁の童子」は、西域の流沙という町の南の小さな泉のほとりで若い巡礼と年老いた巡礼の二人が出会って話すところから始まります。
 その泉のそばに建っている新しい小さな祠のことを若い巡礼が「あのお堂はどなたをおまつりしたのですか」とたずね、老巡礼が「童子のです。(中略)雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃あった昔ばなしのようなのです」と雁の童子の物語を、こんなふうに語りはじめます。

 ある明方、須利耶すりやさまが鉄砲をもったご自分の従弟の方とご一緒に、野原を歩いていられました。地面はごく麗わしい青い石で、空がぼおっと白く見え、雪もま近でございました。(『宮沢賢治コレクション4』筑摩書房・二〇一七年/以下同じ)

 須利耶さまは流沙で写経を生業としてくらしています。その町の「地面はごく麗わしい青い石で」というあたりは仏の国の瑠璃の大地を思わせます。ところが、その従弟は鉄砲で雁を撃つことが楽しいという悪い人です。その悪い人が「従弟の方」「お従弟さま」と敬語でよばれていて、いつか天王如来という仏になるという提婆達多を思わせます。そして、老巡礼の話がおわったあと、この童話はこのように結ばれます。

「尊いお物語をありがとうございました。(中略)ほんの通りかかりの二人の旅人とは見えますが、実はお互いがどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝スガタの示された光の道を進み、かの無上菩提ぼだいに至ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」
 老人は、黙って礼を返しました。何か云いたいようでしたが黙って俄かに向こうを向き、今まで私の来た方の荒地にとぼとぼと歩き出しました。私も又、丁度その反対の方の、さびしい石原を合掌したまま進みました。

「善逝の示された光の道を進み、かの無上菩提に至る」というところは直接的に法華経の内容につながりますが、そのほかにも、法華経を暗示させるところがたくさんあります。だからといって、それが法華経によると言って法華経に引き戻してしまったら、賢治のファンタジックな作品世界は壊れてしまいます。

 日蓮で言うなら「文底秘沈もんていひちん」です。大事な法門は法華経の文の底に秘かに沈めおかれているというのです。その秘密の法門には、経文の文字面を読むだけでは入ることができません。賢治も、その作品の表面から法華経を秘匿することによってイメージの広がりをもたらし、より深く法華経の世界を突きつめたのだと思われます。
 本書では、古典文学の和歌や今様、霊験譚などを多くとりあげました。そこには理屈を超えて、法華経の世界があらわされているからです。

遺したい言葉 

『日経おとなのOFF』5月号の特集「私たちは100歳までどう生きるか?」が発売されました。この特集の「〈辞世の言葉〉で学ぶ死との向き合い方」というコーナーで相談をうけ、幾人かの言葉を上げました。

今も「辞世の句」をつくる人はいるようですが、死を覚悟しての言葉というのでは、きついでしょう。

そこで、「どんな言葉を遺して世を去りたいですか?」と問うなら、おそらく圧倒的に「ありがとう」ではないでしょうか。少なくとも怨みの言葉は遺したくないよね、ということで、冒頭に『万葉集』にある大津皇子の歌をあげました。

大津皇子は謀反の罪を着せられて24歳で処刑されました。その死を前にして居所の近くの磐余いわよの池に遊ぶ鴨を詠んだのが次の歌です。

「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」

自分は死んでいくけれど、池の鴨は明日も鳴いているだろう、といった感傷の歌ですが、無実の罪で処刑されるというのに、まったく怨みが感じられせん。

記事の最後は宮沢賢治の絶詠二首のうち「方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭り三日そらはれわたる」をあげました。

ペシミスティックな作品が多い近代の文学者の中で、賢治はすばらしい讃歌を多くつくりました。37歳で病死して絶筆となった「「方十里」の短歌も「み祭り三日そらはれわたる」という明るさがすばらしいと思います。

そして、このコーナーは、先ごろ105歳で亡くなられた日野原重明医師の「キープ オン ゴーイング」で締めくくりとさせていただきました。

日経オフ表紙

『日経おとなのOFF』5月号の特集「私たちは100歳までどう生きるか?」

「〈辞世の言葉〉で学ぶ死との向き合い方」(部分)
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3月25日に発刊されました。(大角 修)
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『全品現代語訳 法華経』発刊 

角川ソフィア文庫で掲題の著書が発刊されました。既刊『法華経大全』の文庫化ですが、妙法蓮華経の前後に無量義経と観普賢経の抄訳を加えて法華三部経十巻全三十二品の現代語訳です。
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また、コラム解説を拡充し、特に日本の法華文化の解説を加えました。昨今、サンスクリット原理主義がますます強まり、日本の歴史と文化への理解が欠落していると思われるからです。

以下、「はじめに 法華経をどう読むか」の一部です。


 日本での法華信仰は、平安時代には浄土教や密教、神祇とも融合して民衆にも広まりました。その法華信仰を土壌として鎌倉時代には日蓮があらわれ、「南無妙法蓮華経」の題目を本尊とする法華宗(日蓮宗)をひらきました。

今日、日蓮系の伝統諸宗のほか在家信仰団体が数多くあります。そのほか、天台宗はもちろん、真言宗や禅宗でも法華経は重視されます。なにより、和歌や物語、芸能などに法華経は宗派をこえて深く浸透しています。

 サンスクリット経典と漢訳経典
 法華経は古代インドにおいて典礼言語のサンスクリットで記された経典です。日本では西域出身の四〜五世紀の僧=鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が漢訳した『妙法蓮華経』が飛鳥時代から使われています。
 この法華経をはじめ、漢訳経典が日本の歴史と文化に与えた影響には計り知れないものがあります。
今の日常語にも、人間・世界・観念・大衆など、もとは経典の言葉が非常に多いのですから、それらがなければ、そもそも日本語がなりたちません。
 にもかかわらず、日本史や古典文学の研究者にさえ、経典はあまり読まれていないようです。よく「聖書は一冊だけれど仏教経典は数が多すぎる」といわれますが、日本の歴史と文化に大きな影響のあったものだけにかぎれば、それほど多いわけではありません。なかでも法華経は、もっとも基本の経典です。それくらいは読んでおかないと、聖書も読まないで欧米の歴史や文学を語るに等しいことになります。

 しかしながら、経典があまり読まれなくなったことには理由があります。
 ひとつは明治時代の西洋思想の流入をきっかけに日本の仏教は無知蒙昧なものとされ、釈迦や宗祖の本来の教えにもどるべきだという啓蒙主義仏教の運動がおこったことです。
さらに、太平洋戦争の敗戦後、日本の伝統文化や風習の全否定に近い動きがありました。日本語の表記は漢字を全面的に廃止してローマ字表記に改めるべきだという論議もあったくらいです。
そして歴史の記述はもっぱら政治・経済の視点から社会の変化をたどるものとなり、実際には大きな実勢力だった寺社の動きは無視されて、せいぜい「○○時代の文化」という項目でふれられる程度になりました。
礼拝の対象であるはずの仏像も美術・工芸品として鑑賞されるようになり、古典文学の解釈でも人間の心理に重点がおかれて神仏への視座は失われました。これでは経典の知識は不要になります。

 それでも経典を読んでみようとする人は多い。近年は植木雅俊訳『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(岩波書店・二〇一五年)など、読みやすく表現された翻訳書も刊行され、経典になじみのない方でも手にとりやすくなりました。サンスクリット経典は、漢訳される以前の内容がどうであったのかを知るうえでも重要です。

 しかし、サンスクリット経典からの訳では二つの点で見落とされることがあります。ひとつは、前述したような日本の歴史と文化が欠落してしまうことです。もうひとつは、思想・教義の探求に力点がおかれて、祭儀のなかで唱えられたであろう法華経の性格、いわゆる儀礼テクストとしての経典の意味が無視されがちなことです。それを無視すると、法華経の内容はもちろん、読経したり写経したりする意味もわからなくなります。


以下、目次です。
法華経004法華経006

以下、「はじめに 法華経をどう読むか」
法華経008

法華経010

法華経012

法華経014

法華経016

法華経018

法華経020

宮沢賢治と新渡戸稲造シンポジウム 

明治・大正の精神[洋行の世紀から脱近代へ]

宮沢賢治と新渡戸稲造はともに没後84年。4月1日、八重洲ブックセンターにて「イーハトーブの風・トキオの風」のコンサート、シンポ、「銀河鉄道の夜」の映画会があります。プログラムはちらしのとおりです。

180401セミナーちらし

午後のシンポに出席します。冒頭、簡単な基調報告をしてほしいということで「明治・大正の精神/洋行の世紀から脱近代へ」ということでまとめてみました。

幕末から明治初期にかけて洋行した人々が近代日本のリーダーになりました。なかでも最大規模だったのが岩倉使節団(明治4年6年)。総勢107名のうちほぼ半数はそのまま欧米諸国に留まる留学生でした。
英文で「武士道」を発表した新渡戸稲造はもちろん、賢治にも幕末〜明治初期の「洋行者」は大きな影響を与えました。賢治には「科学と宗教の統合」といった課題を与えます。

以下、大きくグリップすると、以下の流れをたどることができます。

◉新渡戸稲造(文久2年/1862〜1933)…日本的倫理の発見
 『Bushido: The Soul of Japan』(アメリカで出版1900・和訳『『武士道』1908)
◉宮沢賢治(明治29/1896〜1933)
 『春と修羅』『注文の多い料理店』(1924)
◉和辻哲朗(明治22年/1889〜1960)…日本論の先駆/『古寺巡礼』(1919)、『風土』(1931)

◉第一次世界大戦(1914〜18)
 シュペングラー(1880〜1936)著『Der Untergang des Abendlandes(西洋の崩壊)』第1巻(1918/和訳『西洋の没落』1926)…脱近代意識の誕生。ただし日本では「西洋の没落」に対して「東亜の興隆」という→太平洋戦争の敗戦後、反公害運動等を契機に脱近代の文脈で賢治が読まれる。

新刊の御案内
全品法華経
3月25日発売。追って内容を紹介します。
『全品現代語訳 法華経』角川ソフィア文庫
無量義経・妙法蓮華経・観普賢経の全十巻三十二品を収めました。


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即位の礼は19年10月 

毎日新聞によると、政府は新天皇の即位の礼を2019年5月1日に行う検討に入ったという。

これまで4月30日退位、5月1日即位と報じられていたが、4月30日に譲位、5月1日践祚(これが2日にわたることは異例だが)、その後、日をおいた即位の礼をおこなう。これは伝統的な形である。

その後、大嘗祭(だいじょうさい)が同年11月におこなわれて、新天皇の即位が完了する。

退位と譲位の混乱 

皇室会議で19年の4月30日退位、5月1日に新天皇の即位と決定された。ちょっと違和感があるのは退位と即位が2日にわたることで、歴史上、前例がない。

どうも「退位」という用語がおかしい。昨年8月のビデオメッセージののち、美智子皇后がメディアが一斉に「退位のご意向」と報じたことに胸が痛む。これまで「退位」という言葉は聞いたことがないとおっしゃられたこともある。

天皇の代替わりは、譲位・践祚(せんそ)のあと、日をおいて即位の礼を営み、さらに11月の大嘗祭(だいじょうさい)をもって一応の完了となる。

江戸時代までは生前に譲位することが多かった。践祚は神器を受け継ぐことで、これが皇位の受禅(じゅぜん)にあたる。譲位・践祚は同日おこない、日をまたぐことはない。
崩御によるときも、即日、践祚の礼をおこなった。天皇がいないことは一日とて許されないからだ。

ところが、今回は退位の翌日に即位するという。歴史的に、こんなことはありえない。

おそらく、4月30日に「退位」ではなく、譲位・践祚の礼をおこない、翌5月1日に即位の礼をおこなうという日程なのだろう。


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残される者たちへの思いが「おことば」の中ににじんでいる 

『サンデー毎日』先週号(11月26日号)の「今こそ、読みたい」という蘭に『天皇のお葬式』が取り上げられています。

サンデー毎日(クリックで拡大)

評者は池内紀さん。内容と意図を正確に紹介してくださいました。

「残される者たちへの思いが「おことば」の中ににじんでいる」という見出しの「おことば」は昨年8月、天皇が退位の意向を示されたビデオメッセージのことです。

池内紀さんは「近年の天皇、皇后の各地への行幸はきわだっいている。とりわけ太平洋戦争の激戦地を巡り、深々と頭を下げる姿は、ひときわ鮮烈だ。あきらかに時代の動向への危惧と批判をこめてのことにちがいない」と述べておられる。私も、そのとおりだと思う。

ただ、続く末尾の「憲法をいじりたくてならないおひとは、どんな目で見ているのだろう?」というのは、少し同意できない。私は憲法改正は必要だと思う。

しかし、「憲法をいじりたくてならないおひと」(たぶん安倍総理のことか)でも、うかつには手を出せまい。憲法改正には国民投票が必要だが、おそらくチャンスは一度きりだ。何がなんでも平和憲法を守れといったいキャンペーンは支持されやすく、強力な護憲の風を吹かせる可能性がある。それが「憲法をいじりたくてならないおひと」の行動を慎重にさせるだろう。

したがって、国民投票が時の風向きではなく、安定して国民の多数の賛同を得られるように、じっくりと論議してもらいたいものだが、現在の国会論議はどうでもよい些事でもニュースになりやすいことぱかり熱をあげて、そうならないところが問題だ。

池内紀さんの「憲法をいじりたくてならないおひとは、どんな目で見ているのだろう?」という言葉に関して言えば、私は戦前・戦中に強調された「国体」という言葉が日本会議などで「美しい日本の国がら」と言葉を変えて復活してきたことを不安に思う。

そのため、『天皇のお葬式』では、「国体」という言葉がどういう経緯で出てきたのかを第5章「尊皇の潮流」等で重視してフォローした。



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