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朝日カルチャー日本仏教史講座 

4月から月1回、日曜日の「日本仏教の歴史をたどる」(全12回)が、おかげさまで受講者にも恵まれ、9月4日で1期・2期の6回を終えました。10月から3期目の3回、テーマは中世に入ります。その前に1回講座「日本中世と鎌倉新仏教」をおこないます。

現在、中世の研究は盛んで、旧来のイメージを一新するものとなっています。そのなかで「鎌倉新仏教」とは何だったのかをお話ししたいと思います。

3期目と1回講座のチラシが届きましたので、ご案内いたします。

1609朝日カルチャー中世

1609仏教3
(画像はクリックで拡大します)

「日本仏教の歴史をたどる」(全12回)
【1期 飛鳥・奈良時代】2016年4月〜6月
1 仏教伝来と聖徳太子
2 大仏建立と聖武天皇(鎮護国家とは何か)
3 古代の神と仏
【2期 平安時代】2016年7月〜9月
4 最澄と空海(山と聖域)
5 観音・不動・地蔵(民衆仏教への展開)
6 地獄と極楽(浄土信仰の広まり)
【3期 鎌倉時代】2016年10月〜12月
7 鎌倉新仏教(法然・親鸞・道元・日蓮など)
8 禅宗の興隆(栄西と臨済宗、禅僧の漢詩など)
9 中世の寺社(平家納経と厳島神社、東大寺大仏再建と鎌倉大仏など)
【4期 室町〜明治時代以降】2017年1月〜3月
10 寺社勢力と信長・秀吉
11 寺と檀家の江戸仏教
12 近代国家と仏教 大角修

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天皇の終活・天皇の葬儀 

昨日8月8日、天皇のお言葉があった。生前退位を望まれていることはすでに周知のことだったが、ご自身の葬儀にまで触れられたのは意外だった。

次のように語られている。
「天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます」

葬儀ではなく「喪儀」なのは、「葬」という言葉のもつ宗教性を避けられたのだろうか。「喪儀」はお別れの儀という意味合いが強いと思われる。殯も古代には天皇の遺体の前で徳を讃えて送る儀式だった。近年は葬儀をおこなわずに「偲ぶ会」を催す風潮に通じるような気がする。


ところで、天皇の葬儀についての法的な規定は、701年、大宝律令の「喪葬令」に始まる。そこには「葬埋」して陵を築くことが定められているが、持統天皇(703年崩御)を火葬の初めとして、聖武天皇は生前戒名をもち僧の読経をもって送られた。

聖武天皇・光明皇后は土葬で陵も造られたが、平安時代になると、土葬だったり火葬だったりする。陵のそばに寺を建てて供養したり、初めから寺の境内に土葬の塚を造ったり、火葬して法華堂に納骨したりした。その葬儀にあたるのは僧たちであった。

江戸時代にはもっぱら土葬になるが、天皇の葬儀・埋葬は京都の真言宗泉涌寺で行うのが常になった。

明治の神仏分離は天皇の葬儀にも及び、仏式を排して神葬祭となった。その最初は幕末の孝明天皇(1867年崩御)、本格的には英照皇太后(明治30年崩御)の大葬からである。京都東山の後月輪陵に埋葬された。

なにしろ1000年以上もおこなわれなかった皇后の神葬祭だから、たいへんなことである。明治42年に「皇室服喪令」が宮内大臣・伯爵田中光顕、内閣総理大臣・侯爵桂太郎によって布告された。その第19条に天皇・皇后の「喪ニ丁ルトキハ大葬トス」とあり、1年の服喪が規定されている。

その後の明治天皇の御大葬は、葬儀は東京の青山、埋葬が伏見の桃山でおこなわれた。そして、明治天皇后の昭憲皇太后の崩御(大正3年)ののち、明治天皇・皇后を祭神として明治神宮が創建された。

大正天皇・皇后からは武蔵陵墓地(多摩御陵)に埋葬されているが。今の天皇は数年前、葬祭も簡素を旨とし、火葬を望まれるとのべられたことがある。当面は生前退位のありかたが課題だが、いずれは「喪儀」も検討されることになるのだろう。

おりから近年は、われわれ庶民も自分の葬式や墓をどうするのかが課題になった。いわゆる終活が盛んであるが、そんな問題はかつて経験したことのないことなので、たいへん困る。死は個人のものでも、葬儀は地域のイベントで葬式組が諸事万端を遂行した。明治の旧民法あたりから親族、家のイベントになるが、喪主はボーッとしていれば、事は進んだ。

今は地域の伝統が弱まり、親族・家族も小さくなった。独りきりで親の死に直面したり、自分自身の行き先を考えねばならないようなことになってきた。

なんとかしろと言われても、わずかなきょうだいや独りでなんとかしたことなんか、おそらく人類の社会の歴史にあることではあるまい。だから、自分でなんとかしろと言われても困る。とてもきつい時勢になってしまった。


明治大葬
『明治天皇御大葬写真集』より儀仗兵が並ぶ中を桃山陵に向かう御大葬の行列大角修

宮沢賢治と法華経の一千部供養について 

『法華経の事典』『法華経のご利益・功徳事典』
一念義・多念義
1000部供養

平安貴族の少年たちの念仏会 

浄土信仰といえば来世にのみ望みをかける厭世的な信仰だと思われがちだが、現実には来世ばかり考えて生きるようなことはありえない。何より法会(ほうえ)は楽しい催しだった。

浄土信仰は平安中期に都で盛んになった。その象徴的な出来事が藤原道長の法成寺の建立である。その阿弥陀堂は九体の阿弥陀像を祀るもので、子の頼通が造った平等院鳳凰堂より大きな仏堂だった。法成寺の広大な境内には他に薬師堂、大日堂などがあった。また、東北と西北の区画に、それぞれ別の阿弥陀堂が建てられた。

 西北院は道長の正室倫子が発願して境内の西北隅に西北院を建立し、治安元年十二月に落慶法要をおこなった。観音・勢至菩薩を脇士に置く阿弥陀三尊を安置した三間四面、檜皮葺の簡素な阿弥陀堂だったが、落慶には盛大な法会が営まれた。清らかな少年の僧たちによって不断念仏が修されたことが『栄花物語』巻第十六「もとのしづく」に記されている。

 御堂(西北院)の有様、仏いとおかしげにて、三尺ばかりにて阿弥陀仏、観音、勢至おはします。仏具どもえもいはずうつくしうせさせたまへり。(中略)やがて三日三夜、不断の御念仏、山(比叡山)の御念仏のさまをうつしおこなわせたまふ。
[以下意訳]
 十二歳から十五歳までの者を選んで、比叡山の西塔・東塔・横川、興福寺、仁和寺、三井寺(園城寺)から、おのおの召された。法師でも、世に知られた人(貴族)の子でない者はよばれなかった。(中略)

御法事が終わって御念仏が始まると、この僧たちが参り集まった美しさは限りなかった。

(小法師たちは道長が与えた宿直姿で十五人を一組とし、四組が交代で不断念仏を開始した)

御念仏が始まり、堂をめぐって読経・念仏するようすは、しみじみ尊く思われる。法会に結縁参集の聴衆は長床(本殿から伸ばした部分)に控え、高僧たちもそれぞれの弟子の小法師を可愛いと微笑んで見ている。(中略)美しく尊いさまは地蔵菩薩もかくやと思われる。(中略)

 そうして三日が過ぎ、それぞれ布施の目録をいただいて帰るときには誰もが名残を惜しんだ。

 以上は拙著『浄土三部経と地獄・極楽の事典』より


 不断念仏とは日数を決めて特別の念仏を修する法会である。ここには子を出家させた親たちが我が子の晴れ姿を見ようとする姿が描かれている。

 貴族の子らは幼児期に出家しても、実家との縁は切れず、独特な関係を保った。日本の仏教の大きな特質のひとつである。

(大角修)

透明な浄土・水想観01 

観無量寿経に十六観とよばれる阿弥陀仏と仏国土の瞑想法が説かれている。その第一は日想観、夕陽を瞑想して西方浄土を想えという。それがお彼岸の仏事の由来ともいわれる。
第二は水想である。澄みきった水を想えという。
次にそれが凍った氷柱を瞑想する。これが私は宮沢賢治の『春と修羅』の末尾「冬と銀河ステーション」の氷のスペクトルや『銀河鉄道の夜』の天気輪の柱のイメージにつながるのではないかということは折りに触れて述べてきた。
水想観はあまり知られていないようだが、私は十六観のなかでもっとも鮮烈な印象を覚える。
次回、観無量寿経の記述を紹介したい。


『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』へ
  『イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら』へ


賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

紫式部は地獄に堕ちた04 雨月物語 

源氏供養のおかげで紫式部は地獄から救われ、一転して石山寺の観音菩薩の化身だということになったのだが、江戸時代の上田秋成『雨月物語』の序にも、紫媛(紫式部)が源氏物語を著し、いったん地獄に堕ちたのは「蓋けだし業を為すことに逼る所」と記している。それがあまりの名文のためで、自分などはそんな心配はないと謙遜している。
その『雨月物語』の第一話「白峯」は配所の松山で恨みをのんで崩じた崇徳上皇の怨霊を西行がう和歌を詠んで鎮める話。もとは『保元物語』にあり、拙著『法華経の事典』でそれを取り上げた。
 崇徳上皇は血染めの写経を海に沈めて恐ろしい怨霊になった。けれど、鎌倉時代の後深草院二条の日記・紀行文『とはずがたり』では、白峯を訪ねて、けっこう物見遊山の気分。『雨月物語』の恐いもの見たさにも通じる気分である。
(この項、終わり)「紫式部は地獄に堕ちた」01へ

法華経の事典法華経の事典(大角修)

極楽浄土を信じられるか05 

 極楽浄土が信じられた頃には、この世のことはとにもかくにも、である。必ずしもいい人生でなくてもよかった。たとえ、どんな悪人でも迎えてくれると説かれている阿弥陀仏の救いから漏れたとしても、人生は一度きりではない。生死は流転し、いつかは仏に見えることもあろう。
 そして、この世のことはとにもかくにも、来世を大事に思って生きていくというのが一般の常識にもなり、それを「後生大事」と言った。
 何か失敗をしたときに「後生ですから」と謝るのも、「後生大事」であるからだ。「ここで私を許さないと、あなたの後生はひどいことになりますよ」と相手を脅しているのである。
 そんな言葉が死語に近くなった今は、極楽浄土を信じることも難しい。
 看取りの文化も、伝統の葬儀や習俗に込められていた死の文化も薄くなり、浄土は消滅してしまったかのようである。
 しかし、精神の底流には欣求浄土(浄土を欣い求めよ)の心がある。たとえ霊魂や来世の存在は信じられなくても、逝った人が「天国で安らか」であることを祈らずにはいられない。
 この天国のイメージにはキリスト教の影響が強いのだろうが、たいていの人はクリスチャンではない。「どこか明るく幸せなところに行ってほしい」という気持ちが「天国」という言葉になるのだろう。


「極楽浄土を信じられるか1」へ
(大角修)

極楽浄土を信じられるか 04 

 来世観が大きく失われた今日、人生の意義はもっぱら現世に求められる。それで「いい人生だったと満足して死にたい」と願うのだが、問題は、「いい人生だった」と思いたいところにある。

 自分の死が近づいたときに、「いい人生だった」と思える人は、はたしてどれくらい、いるだろう?
 私などは「あんなことをしなければよかった」「あのときにもう少し頑張っていれば」というようなことが数知れない。別の人生があったのではないかとも思われる。これからよほど気持ちを改めても、「いい人生だった」と思えるようになるにはほど遠い。

 もし、「いい人生だった」と心から思える人がいるなら、それは最高に幸せな人生だといえよう。
 しかし、それは誰の評価なのか。もしかしたら、周囲の人には自分勝手で困った人だと思われているかもしれず、本人は気づいていないということのほうが多いのかもしれない。

 そうだとすれば、その人は自己中心的であって、強引さもはなはだしく、自分は満足な人生だと思う心にストレスや悩み・苦悩をかかえているだろう。
 だから、個性的で私らしく「いい人生だった」と思えというのが強迫観念にも近くなった今、それは不幸のもとでもある。

 しかし、極楽浄土が信じられた頃には、必ずしもいい人生でなくてもよかった。

「極楽浄土を信じられるか1」へ
(大角修)

中世を拓いた平清盛と源頼朝 

平清盛は日本の中世を拓いたという意味で偉大な人物だった。先に「鎌倉方は平清盛を最高に敬った 」で触れたように、日本の中世は武家と公家、それに寺社勢力が鼎立した時代だった。NHK大河ドラマでは「武士の世を作る」なんて想定でやっているが、清盛も頼朝も神仏を恐れた。それが中世を拓くのである。
 中世には記紀神話も神仏習合・和光同塵の深まりによって大きく再編され、各地の霊場を中心に「それ日本秋津島ニッポンアキツシマは神国なり」等と語り出す中世神話(いわゆる中世日本紀)が数多く生まれ、民衆に広まった。

 近年は古事記がブームだが、古事記が再発見されるのは江戸時代の国学による。さらに戦前の国家神道によって古事記の評価が高められた。
 しかし、現代の日本文化とのつながりは薄いので、読んでもヘンな話である。それよりも中世日本紀は日常にどこかで聞いた話が多く、直接に日本の神話となっている。それについても、いずれ紹介したい。

(大角修)

極楽浄土を信じられるか 03 

 かつて、看取りのときには、「先に逝って待っていてね」「向こうでみんな待っているよ」と言ったりし、死にゆく人の心を来世に向けたものである。
 はたして、来世というものがあるのかどうか。それはわからない。けれども、「向こうに行けば安らかだよ」と語りかけることが重要であった。また、阿弥陀仏の手から糸を引いて、その人の手に結びつけるといった臨終の形もあったのである。
 そうした看取りの文化が生きていた頃には、もしも来世というものがあるのなら極楽浄土に生まれたいと願うのが当然だった。

 このような来世観が大きく失われた今日、人生の意義はもっぱら現世に求められる。それが「人生は一度きり」「楽しく自分らしく」「いい人生だったと満足して死にたい」といった言葉になる。
 しかし、「楽しく自分らしく」といっても、そもそも自分は何者であるのか。どうあれば楽しいのかは、よくわからない。趣味とか遊び、仕事や奉仕活動に精一杯打ち込めば、それが楽しく自分らしいことになるのだろうか。
(つづく)
「極楽浄土を信じられるか1」へ
(大角修)

極楽浄土を信じられるか 02 

今のお寺に行っても、華麗な阿弥陀堂や金色の阿弥陀仏がある。ところが、なぜそれほどに極楽往生を願ったのかが、今ではよくわからなくなってきた。
これは「人生は一度きり」「楽しく自分らしく」「個性尊重」などとよく言われるようになったことの影響が大きいと思われる。いわゆる死生観から「死」が抜け落ちて、もっぱら「いかに生きるべきか」が問われるようになった。
そして、いよいよ親やきょうだいが死にゆくときにも、「いい人生だったよね」と慰めたり、「きっと病気は治るよ」と、心を現世に引き戻すような無用の元気づけをしたりする。
1960〜70年代の大きな社会変動以前には、そういう慰めだけではなかった。
のときには、家族や親族が集まって、死に水をとった。水を含ませた綿を唇につけたりする風習で、看取りの文化のひとつだった。臨終に立ち会うことは親族の重い義務であり、親の死に目に会えないなどいうことは大きな不孝として強く戒められていた。
 その看取りのときには、「先に逝って待っていてね」などと声をかける。先に亡くなった祖父母やきょうだい、あるいは幼く死んだ子の名をあげて、「向こうでみんな待っているよ」と言ったりし、死にゆく人の心を来世に向けたものである。(つづく)

「極楽浄土を信じられるか1」へ
(大角修)

極楽浄土を信じられるか 01 

浄土三部経の現在語訳がほぼ完成し、来年には刊行できる予定だ。
その作業を進めながら思うのは、日本の歴史・文化において極楽浄土がいかに大きなものだったかということである。
それについて思うところを記していきたい。

 闇晴れて心の空に澄む月は西の山べや近くなるらん

 これは鎌倉時代初期の勅撰『新古今和歌集』にある西行の歌である。「迷いの闇が晴れて心の空に月が澄んでいる。西の山辺に阿弥陀如来がお迎えに来られるのも近くなったらしい」という意味だ。
 このように浄土往生を念じる歌は非常に多い。『源氏物語』『平家物語』『方丈記』などの古典文学も極楽浄土への思いに彩られている。

『方丈記』で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と世の無常を詠じるのは、生死流転の向こうにある永遠の世界に思いを致すためだ。
 盛者必衰の理を語る『平家物語』も結末は「みな往生の素懐を遂げるとぞきこえし」、すなわち「亡んだ平家の一門は皆、日頃から願っていた極楽往生を遂げたということである」という言葉で終わる。
 平家の公達らが一人一巻を造って厳島神社に奉納した国宝『平家納経』も、清盛直筆の「願文」には、神仏の霊威のおかげで一門の繁栄がもたらされた今、来世の妙果、すなわち極楽往生を願うと告げている。

 今のお寺に行っても、華麗な阿弥陀堂や金色の阿弥陀仏がある。それに対して、地獄の救いを祈る閻魔堂などは小さなものだ。日本の古典文学や建築・絵画・芸能などを見れば圧倒的に極楽だらけである。
 ところが、なぜそれほどに極楽往生を願ったのかが、今ではよくわからなくなってきた。
次回は、そのことについて。(極楽浄土を信じられるか02へ)

(大角修)

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