鎮護国家の仏法・国分寺と薬師如来 

飛鳥・奈良の国家仏教は、いわゆる鎮護国家を祈る儀礼を中心とし、壮麗な伽藍や法会は、その装置だった。そうした儀礼なしには古代国家は体をなさない。

日本史の通説では、鎮護国家は「仏の力で国を護ること」などと語句を言い換えたにすぎないような説明がされ、古代人の妄想みたいなものだと考えられてきた。

鎮護国家は仏法の基層を形成し、家内安全、受験合格、厄除け祈願などに今も生きている。その成立を国分寺建立の経緯にみてみよう。

国分寺の建立

歴史1巻p72 歴史1巻p74 歴史1巻p76
画像はクリックで拡大します。


☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」14 ☞01へ 
(大角修)

スポンサーサイト

大宝律令・寺と僧のしくみ01 

推古天皇二年(594)、三宝興隆の詔が下された。この詔によって蘇我氏が飛鳥寺(法興寺)、聖徳太子が法隆寺などを建立したが、まだ国家の官寺ではなかった。国家として寺院を建立するようになるのは大化元年(645)、孝徳天皇の仏法興隆の詔からである。同年、僧尼を管理する10人の僧(十師)と、寺院を運営する役人(寺司など)を任命した。

さらに大宝元年(701)、大宝律令の一環として僧尼令27条を定めて僧尼を統制した。そこに出家の手続きも図のように定められている。

第1巻僧尼図1 画像はクリックで拡大します。

得度は「度を得る」すなわち悟りを成就することを意味するが、実際には出家すること、とりわけ国家によって出家させることを言い、古代の文献には「僧○○人を度す」といった記述が多い。

図の手続きに従って出家させることを官度という。官度の僧尼が「官僧」で、租税が課される公民の戸籍から抜いて僧籍(僧尼名籍)に移される。氏族の私寺である氏寺の僧も官僧に含まれる。

対して、この手続きを経ずに出家することを私度といい、正式な僧尼とは認められず、優婆塞・優婆夷うばそく・うばい(在家信徒を意味する語)と呼ばれたが、天皇不予(病気)や天候不順・疫病流行のときなどに一度に何百人も官度するようになった。

奈良時代には鑑真を唐から招いて国家の戒壇を設け、上図のしくみに加えて授戒のしくみを整え、太政官から授ける「戒牒かいちょう」という文書をもつ者が正式の官僧とされる。それについては後述するが、天台宗の開祖・最澄の戒牒が現存する。しかし、空海の戒牒は現存しない。受戒したという記録もないため、空海が正式の僧だったかどうかはわからない。空海は私度僧だったという説もある。

なお、大宝元年には孔子をまつる釈奠せきてんが初めておこなわれた。しかし、儒教は官吏の文章道の素養にとどまり、空海は儒教では来世の父母を救うことができないので出家したと自著『三教指帰』に書いている。

僧尼令の定め
第1巻p64-65

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次

第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」13 ☞01へ 

(大角修)

聖徳太子の「三経義疏」と在家仏教の始点 

聖徳太子の事績に「三経義疏」の撰述がある。そのうち、『勝鬘経義疏』については母の穴穂部間人皇女ために後の橘寺の地で説いたと伝えられ、女人救済の教えとされるが、女人救済の前提として大乗菩薩道があり、「三経義疏」の3つの経典はどれも在家の救済を重視されている。

ところが、どうも日本史の研究者は経典をあまり読んでいないように思われる。日本史の本では、大人向きのもの、仏教史の本においてさえ、経典はほとんど引用されていない。

それでは仏教が理解されるはずもない。「新・日本の歴史」シリーズでは、かいつまんだ抄訳ではあるが、経典の中身を紹介するようにした。

ところで、平安時代には聖徳太子への崇拝が高まり、日本の釈迦、日本の教祖と仰がれるようになるが、日本仏教の始点に置かれた聖徳太子が出家の僧ではなく、在家の信徒であったところから、日本は世界に例のない「在家仏教」の国になり、僧でも結婚するのが当たり前になった。

その歴史を知るためにも、「三経義疏」の3経典の在家主義が重要である。

聖徳太子の「三経義疏」と片岡山伝説

歴史1巻p044-045  歴史1巻p046-047 画像はクリックで拡大。

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」12 ☞01へ 13へ
☞「経典を読む・勝鬘経1 王妃シュリーマーラーの誓い 」
(大角修)

古墳から寺へ 

冠位十二階の制は聖徳太子と蘇我馬子が協力してつくった。血筋による姓(臣・連など)によらず才能や実力のある人を朝廷の役職につけるといいながら、実際には蘇我氏による他氏排斥に利し、蘇我氏の専横が強まった。

そのためか、推古天皇十三年(605)10月、聖徳太子は蘇我氏の根拠地の飛鳥をはなれて斑鳩(奈良県斑鳩町)にうつった。その斑鳩に太子が建立した寺が法隆寺である。蘇我氏の法興寺(飛鳥寺)にたいして「法隆寺」と名づけたと考えられている。

そのころから、権力者の威勢は高い塔をもつ寺院の伽藍によって示されるようになった。日本最初の大伽藍が蘇我氏の法興寺(飛鳥寺)である。

塔は仏舎利(その代替品の水晶など)を納めて建立されるが、飛鳥寺五重塔の基部の跡からは古墳の副葬品に多い勾玉が発掘されたそうである。それは権威・権力をあらわす王権の象徴が古墳から大寺院の伽藍へと変化したことを示している。

四天王寺と飛鳥寺の建立

歴史1巻p36-37  歴史1巻p38-39

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」11 ☞01へ 12へ
(大角修)

冠位十二階と憲法十七条 法とは何か 

『日本書紀』によって歴史に大きく登場した聖徳太子の事績には、まず、「冠位十二階の制」と「憲法十七条」がある。

冠位十二階の制は推古天皇十一年(603)十二月五日に布告、翌年正月に実施された。次いで同年四月に憲法十七条を布告。それは天皇に仕える官吏の心得を説くもので、冠位十二階の制の理念を改めて示したものだった。

そこに「篤く三宝を敬へ」(第二条)など、ブッダのダルマ(法)が採り入れられ、以後、日本における「法」の原点になった。たとえば鎌倉時代の「御成敗式目」51か条など、十七条の倍数とすることに法の威厳が求められている。

ところで、冠位十二階は勅令(詔)として天下に布告されたもので、いわゆる制定法ではない。対して、現代日本では制定法の日本国憲法を最高の法源としているのだが、制定法には大きな限界がある。

たとえば、首相官邸のドローン事件後、ドローンを規制する法律の必要があることがわかった。しかし、法の規制を細かくしてもテロリストには無効で、迷惑するのは善良な市民ばかりということになる。

そんな制定法の限界を超えようとするのがイスラム法シャリーアである。シャリーアについては別の機会に述べるとして、今回は「新・日本の歴史」第一巻「憲法十七条」の箇所から「法とは何か」の部分を紹介したい。

聖徳太子の憲法十七条
歴史1巻p40-41  歴史1巻p42-43 クリックで拡大します。


『聖徳太子の言葉 十七条憲法』
聖徳太子大

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」10 ☞01へ 11へ
(大角修)

大宝律令の神祇 

日本で初めて元旦の朝賀☞都と道教の四神が行われた文武天皇五年(701)は3月に「大宝」建元。8月には「大宝律令」が完成し、いわゆる律令国家の建設が本格化する。

律令は中国に学んだものだが、中央官制には最高官庁として太政官と並んで神祇官がおかれた。神祇官の設置は日本独自のものである。

「大宝律令」にも「神祇令」という20条の規則が定められ、天神地祇の祭祀は神祇官が統制することになった。

当時、まだ神道の教義は成立していない。「神祇令」には祈年祭にはじまる一年の行事や日常の祭り、天皇の即位のときの祭礼の式次、その費用をだす「神戸」についての規則が定められている。

宮中の祭祀で重要な役割をもったのが中臣と忌部という氏族だった。たとえば、皇位をうけつぐ践祚の日には中臣が「天つ神の寿詞」を読みあげる。それは今の神社でも神主がとなえる「大祓詞(中臣祓詞)」のようなものだったと思われる。「高天原に神留まり坐す皇が親神漏岐神漏美の命以て八百万神等を神集へ……」と高天原の神々からつづく天皇の徳をたたえるのが中臣氏で、代々その地位を引き継いだ。

ちなみに、神祇官は地方の神社の名や由来を調べて「神名帳」という名簿を作成した。それは平安時代まで続いて中断したが、明治政府による国家神道によって復活し、全国の神社に官幣・国幣の序列が設けられた。

大宝律令と神祇令の定め
1巻p62-63 第1巻p64-65


☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」09 ☞01へ ☞10へ
(大角修)

都と道教の四神 

文武天皇五年(701)の元日、藤原京の朝廷で元旦の儀式(朝賀)がおこなわれた。以後毎年のことになる。そのもようが『続日本紀』に次のように記されています。
 
天皇が大極殿に出御して官人の朝賀をうけた。正門に烏形の幢(旗)をたて、左(東側)は日・青龍・朱雀の幢、右(西側)は月・玄武・白虎の幢をたて、蕃夷の使者が左右にならんだ。

これは中国の朝賀の儀式にならったもので、日本の遣唐使も中国の朝廷では「蕃夷」の列に並んだ。「蕃夷」とは周辺の民をいい、大和朝廷では隼人と蝦夷を並ばせた。帝国の証である。


朝賀


7本の旗を立てたようすを『新・日本の歴史』では上のイラストで示した。天皇は大極殿の高御座(たかみくら)に坐し、文武百官が左右にわかれて列して、人皇初代の神武天皇以来の歴史を語る祝詞が唱えられた。その神武天皇のしるしが中央の八咫烏、左右に中国・道教の東西南北の守護神(四神)、そして日月の旗が立つが、仏教の旗はない。

藤原京には天皇の大極殿に匹敵する巨大さで大官大寺(のちの大安寺)が建立されていたが、仏教は内裏からは排除されていた。皇居は神々を祀る神社でもあったからだ。

この神と仏の緊張は、奈良時代の道鏡事件などを引き起こすことになる。

ちなみに藤原京は内裏は東西南北の大路の中心に造られていた。そのうち南方の大路が朱雀大路で、のちの平城京や平安京では朱雀大路のみになる。

藤原京
1巻後60-61

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次

第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」08 ☞01へ ☞09へ
(大角修)

『古事記』と『日本書紀』 

『古事記』と『日本書紀』は、どちらも奈良時代初期に勅命をうけて編まれた。

『古事記』は712年完成、『日本書紀』はその8年後の720年の完成である。どちらも太初から始まるが、後半の帝紀(天皇の年代記)が大きく異なる。『古事記』は第33代推古天皇(在位593- 628年)までで帝紀は簡略。それに対して『日本書紀』は第41代持統天皇(在位690- 697年)までを語り、もっぱら帝紀の記述に力点がある。

そのため『日本書紀』は、つづく『続日本紀』『日本後記』など古代の六国史の最初に置かれることになる。また、江戸時代の国学によって『古事記』が再発見されるまで、日本の歴史は『日本書紀』に始まるものであった。

その『日本書紀』で大きく記されているのが聖徳太子の事績である。『古事記』には王子の1人としてわずかに名が出る程度の聖徳太子が『日本書紀』では冠位十二階の制定、憲法十七条の布告などが詳しく記されている。このギャップが大きいために「聖徳太子は実在しなかった」という説まである。

聖徳太子が実在したかどうかはともかく、国家の正史として聖徳太子の事績が求められたという事実がある。また、第41代持統天皇による壮大な都の建設をもって古代の日本は大きな区切りを迎えたのだった。


都の建設については『万葉集』に「壬申の乱が平定したあとの歌二首」がある。次はその一首。

大王は神にしませば水鳥の すだく水沼を皇都となしつ

「大王(天皇)は神なので、水鳥が群れる沼地でさえ立派な都にされている」というのだが、逆に壮大な皇都の建設を通して大王は神になったのだった。


☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」07 ☞01へ ☞08へ
(大角修)

朝鮮半島への仏教伝来 

『三国史記』(高麗王の命によって12世紀に編まれた史書)によれば、高句麗・新羅・百済のうち、最初に北部の高句麗が前秦(五胡十六国時代遊牧民の王朝)の皇帝から仏像を授けられた(372年、仏教公伝)。

当時、朝鮮半島では三国が争っていた。南部の百済は、対抗して中国南部の東晋から僧を招いた(384年)。

新羅では日本と同様に排仏派の勢力が強く、仏教を王が公認したのは527年。仏教導入をとなえた王の側近の異次頓という忠臣が斬首されるという悲劇の後だった。それは日本への仏教公伝の少し前のことである。

これが『日本書紀』にいう「西の国々は皆、仏法に帰依している」という状況であり、仏教導入は戦乱に押されてのことだった。


朝鮮半島への仏教伝来 クリックで拡大します。
1巻p34-35

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」06 ☞01へ ☞07へ
(大角修)

仏教公伝と排仏・崇仏派 

6世紀半ばの『日本書紀』欽明天皇十三年の条に百済の聖明王から仏像と経典などが献上されたとある。「仏教公伝」とよばれる出来事である。

聖明王の国書には「仏法の福徳果報はこの上ない安息をもたらし、祈り願うことは意のままにかないます。遠くは天竺より、ここ百済・高句麗・新羅の三韓にいたるまで、この教えに帰依していない国はありません」と書かれていた。

欽明天皇は仏像を祀るべきかどうかを臣下に問い、大臣の蘇我稲目は「百済より西の国々は皆、仏法に帰依しております。日本だけ、そうしないことができましょうか」と答えた。

 大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「我が国の天下の王にまします天皇は昔から天地の社の百八十の神々を春夏秋冬にまつり、拝みたまうことを恒とされてきました。今ことさらに蛮神(外国の神)を拝みたまわば、おそろしくも我が国の神々の怒りをよびましょう」という。

ここから、いわゆる崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏らの戦いが始まる。それについて崇仏派の蘇我氏は進歩的な開明派だったという解説が見られる。しかしそれは、明治維新のときのイメージで、文明の進んだ外国に対する開国は「開明」というように安易に語られてはいないか。

『日本書紀』には百済から盛んに援軍を求めてきたという記事があり、当時の中国・朝鮮半島の情勢をみても、仏教公伝は軍事的な同盟のしるしであった。

そもそも、仏教は釈迦の時代から1000年がたち、いわゆる「国家仏教」として発展していた。日本に伝来したのは最初から「国家仏教」であり、いわゆる個の信仰としての宗教ではない。

そのことを「新・日本の歴史」では、以下の「仏教の誕生と広まり」の項に述べた。


仏教の誕生と広まりクリックで拡大します。
1巻P28-29 1巻P30-31 1巻P32-33

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」05 ☞01へ 06へ(大角修)

神武東征の神話と建国記念の日 

「ここに本朝人王の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に武臣相模守平高時(北条高時)といふ者あり」

これは『太平記』の冒頭である。中世の歴史物語では「人王(人皇)初代」の神武天皇から語りおこすのが通例だ(現在の平成の天皇は第百二十五代)

原初の「神代」ののち、人の世は神武天皇、和名は「神倭伊波礼毘古命かむやまといはれひこのみこと」すなわち「大和の起源になった天皇」から始まる。その物語が神武東征の神話である。

神武天皇は九州の高千穂の宮から東征を開始して「畝火の白檮原宮」(奈良県橿原市)で「辛酉の年の正月朔日(一日)」に即位。その年を皇紀元年とする」と『日本書紀』に記されている。

 のちに明治政府は『日本書紀』の天皇年代記と干支によって、その年を紀元前660年と計算し、即位の正月元旦も新暦にして2月11日とした。いわゆる紀元節(今の建国記念の日)のいわれである。

国家の歴史を『古事記』『日本書紀』によりながら「正月朔日」を新暦に直すなど、いかにも明治政府らしいやりかたである。

ちなみに、国家神道の明治になって記紀神話が非常に強調されるようになり、明治ニッポンの神話が新たに生まれた。神仏分離によって、各地の寺社に伝えられた神仏習合の物語が排除された結果、今の私たちは『古事記』が日本の神話だなどと思うようになった。それも明治ニッポンの神話のひとつである。



皇紀元年と「建国の日」 クリックで拡大します。
1巻p22-23

☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」04 ☞01へ ☞05へ
(大角修)

邪馬台国の女王・卑弥呼の銅鏡 

「魏志倭人伝」によれば、西暦では239年に卑弥呼は魏に使いをおくった。翌年、魏の皇帝は卑弥呼を「親魏倭王」に任じる詔書とともに金印紫綬と剣二本、銅鏡百枚、そのほか布や真珠などの品物をさずけたという。

卑弥呼の邪馬台国がどこにあったのかという問題もさることながら、百枚もの銅鏡の行方が知れない。

歴史の本では卑弥呼が人々の前で銅鏡を掲げてピカッと光らせているイラストがよく見られる。まるで文明の利器を未開人に見せて恐れ入らせているかのような描かれ方だ。NHKの歴史ヒストリアでも同様のイメージで再現していたが、それはないだろう。

鏡は神秘なものだ。今の神社のように祭壇の真ん中に祀られたと考えるほうが自然ではないか。卑弥呼とて安易には触れられないものとして置かれただろう。宮中で三種の神器が置かれる賢所かしこどころのように、権威は「隠れる」ところになりたつのだから。

女王卑弥呼の銅鏡 クリックで拡大します。
1巻P16-17


☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次

第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」03 ☞01へ ☞04へ(大角修)