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宮澤哲夫『宮澤賢治 童話と〈挽歌〉〈疾中〉詩群への旅』 

宮沢賢治研究会の大先輩である宮澤哲夫さんから掲題の書が届いた。本書は2部に分かれる。第1部は「童話への旅」、第2部は「〈挽歌〉〈疾中〉詩群への旅」。

「旅」がテーマの作品を論じたということではない。「賢治自身の生が、限られた短い時間の〈せわしい旅〉の暗喩であり、また〈けわしい旅〉でもあった」(「アプローチの方法 まえがきにかえて」より)ということである。


「せわしい旅」というのは37歳で逝った賢治の短い生涯というより、『春と修羅』「序」にある「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」という言葉を連想させる。

「けわしい旅」も賢治の実際の人生が険しかったというより、盛岡高等農林時代の短歌「険しくも刻むこゝろの峯々に」をはじめ、いろいろな作品に出る「けわしい心の峰々」を思わせる。

昨夜、帰宅して書籍封筒をみたとき、宮澤哲夫さんの著書であることはすぐにわかって期待感にわいた。まず目に飛び込んできたのは、〈疾中〉の語だ。

〈疾中〉詩篇は賢治の生涯の大きな転換期に創作された。昭和3年(1928年)32歳の夏に肺の病が悪化し、羅須地人協会の活動を断念して賢治は生家に戻った。自身の死を見つめてつくられたのが〈疾中〉詩篇である。

そのなかに「病床」という二連の短詩があり、作品集では冒頭に置かれる。

 たけにぐさに
 風が吹いてゐるといふことである

 たけにぐさの群落にも
 風が吹いてゐるといふことである


この詩は何か深いものを感じさせるが、俳句のように情景を詠んでいるだけなので、解釈のとっかかりもないところがある。それを宮澤さんはどう読み解かれるか。目次等のほか、本文からそのページのみアップさせていただく。

宮澤著00表紙画像はクリックで拡大します)
『宮澤賢治 童話と〈挽歌〉〈疾中〉詩群への旅』蒼丘書林2016.9.12


宮澤著01もくじ01 宮澤著02もくじ02
もくじ

宮澤著04病床01 宮澤著04病床02
疾中

宮澤著03あとがき01 宮澤著03あとがき02
あとがき(大角修)

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八重洲ブックセンター・賢治トーク 

8月に宮沢賢治生誕120年、9月21日には没後83年を迎えます。花巻では恒例の賢治祭が催されますが、東京の八重洲ブックセンターでも記念の絵画展・トーク・朗読・コンサートの催し「イーハトーブの風・トキオの風」が9月20から24日の5日間おこなわれます。

24日13時から1時間ほど「空と海と」という題でお話しする予定です。

1609ブックセンター
(画像はクリックで拡大します)大角修

宮沢賢治「宇宙意志」を見据えて 

古い友人の長沼士朗さんが長年の研究成果を『宮沢賢治「宇宙意志」を見据えて』をコールサック社から上梓。序と目次、私が書かせてもらった跋文をアップします。

長沼01

☞アマゾンへ
☞コールサック社



  画像はクリックで拡大します。
長沼序

目次
長沼02 長沼03 長沼04

跋文
長沼05 長沼06
(大角修)

宮沢賢治の曼荼羅本尊2 

宮沢家は真宗大谷派安浄寺の門徒だった。賢治が法華経に帰依してから、父の政治郎と激しく言い争うことがあったという。

この父子の争いは、浄土信仰と法華信仰の教義論争の観点から論じられていることが多いけれど、教義で激しく争うようなことは、あまり考えられることではない。

親戚の関徳彌によれば、国柱会から届いた大曼荼羅本尊を賢治は経師屋に注文した掛け軸で賢治自身が表装し、仏壇に勧請した。「その日の読経や式の次第は実にりっぱで、後に控えている私はそのりっぱさに感動したものです」(関『賢治随聞』)ということだが、そのりっぱな読経の声は、階下の家族を困惑させた。

 また、賢治は十二月には寒修行と称して花巻の夜の街を「南無妙法蓮華経」と高らかに唱題して歩いた。ある夜、政次郎が関の家に来ていたときに雪道を歩いてくる賢治の「南無妙法蓮華経」が聞こえてきた。政次郎は「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くしたという(関『同』)

こうしたことに加えて、賢治が父に家の転宗を迫ったことが対立の一番の理由になっただろう。

転宗となれば、先祖代々の菩提寺との縁を切ることになり、親戚とのつきあいも変わる。盆・彼岸の行事や年忌法要の習わしも変わり、仏壇も取り替えねばならない。宮沢家の墓は菩提寺の安浄寺にあったので、それも移転する必要がある。そうした実際のくさぐさが非常にやっかいだ。

これは信仰がどうのという問題ではない。息子が転宗を言い出したりすれば、家長たる父親が怒らないほうがおかしい。政次郎も激しく怒ったようだが、父は「困ったことをするものだ」と関が書き伝えているように、暗然たる気分だったというほうが近いだろう

さらに、宮沢家の困惑は2つの仏壇にあっただろう。1階で父ら家族が「南無阿弥陀仏」ととなえれぱ、賢治が2階で「南無妙法蓮華経」ととなえる。そんな事態が生じたのである。

そして賢治の没後も、宮沢家には2つの仏壇がある状態が続いた。以下、次回。


☞日蓮の法華経

☞宮沢賢治の曼荼羅本尊
賢治曼荼羅

著書『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』へ
  『イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら』へ


賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

宮沢賢治の曼荼羅本尊 

日蓮の曼荼羅をとりあげたついでに宮沢賢治の曼荼羅本尊について。☞「日蓮の曼荼羅を絵解き」

賢治は24歳の大正9年(1920)10月か11月ころ、法華信仰団体の国柱会に入会。翌年1月には上京して8月頃まで、その活動に参加した。それは進路に悩んだ時期であり、友人の保阪嘉内あての手紙などには過激な法華信仰が見られる。この時期の賢治については『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』で論じた。

その後、花巻に戻ってからは過激な法華信仰の主張はなくなるが、国柱会から与えられた大曼荼羅は生涯、自身の本尊として持しつづけた。

宮沢賢治の大曼荼羅本尊
賢治曼荼羅
(http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/index.htmlより)

この曼荼羅は現存しない佐渡始顕の大曼荼羅(☞「日蓮の法華経」参照)の写しだと伝えている。書き込まれている文字は他の大曼荼羅と同じだが、大きく異なる特色がある。

上部に、左右振り分けの形で「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」と書き込まれている。読み下せば「もし人、病あり、この経(法華経)を聞くを得れば」「病は即ち消滅し不老不死なり」となる。

日蓮は数多く曼荼羅をあらわして弟子や信徒に与えた。そのなかで、この文字をもつ曼荼羅がどれくらいあるのか。法蔵館の『日蓮聖人真蹟集成』で調べたことがある。

収録120点ほどの曼荼羅のうち、この文字があるのは確か3点か4点ほどだった。レアな例である。おそらく、自分か家族が重い病気で苦しむ弟子か信徒を励まして授けた本尊ではないかと思われる。

賢治は、若く病死した妹のトシを悼んで「永訣の朝」「無声慟哭」などの痛哭の詩をつくったほか、賢治自身も結核で肺を病み、37歳で没する。

賢治は病気に苦しみつづけた。ところが、本尊に記された「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」の言葉については何も語っていない。

なお、賢治の曼荼羅は後に宮沢家が日蓮宗に転宗するにあたって仏壇の本尊として祀られ、今日に至る。そこには父親の政次郎の思いをしのばせる証言がある。次回、触れたい。


☞過去記事「宮沢賢治と仏教1」

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賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

身照寺建立一件 宮沢賢治「法華堂建立勧進文」1 

宮沢賢治の墓塔がある身照寺は日蓮宗の寺で、この季節、見事な枝垂れ桜に彩られます。桜は古木の風情ですが、この寺が建てられたのは新しいことで、賢治の時代には花巻に日蓮宗の寺はなかったのでした。

身延を故地とする南部家ゆかりの花巻に日蓮宗の寺を建立しようという運動をおこしたのが、遠野出身の日実で、それに賛同したのが、賢治の叔父の宮沢恒治です。

 この叔父の求めに応じて賢治が書いたのが「法華堂建立勧進文」です。
 鎌倉賢治の会で「なぜ賢治は鎌倉に来なかったのか」というテーマでお話ししたことがきっかけで、この勧進文を改めて読んでみることにしました。
 まず、その全文をお読みください。
 全集にもちろん収録されていますが、賢治作品が網羅されている森羅情報サービス「法華堂建立願文」をリンクします。
(大角修)

宮沢賢治はなぜ鎌倉に行かなかったのか 

鎌倉賢治の会に呼ばれて、昨日、行って来ました。演題は「宮沢賢治はなぜ鎌倉に行かなかったのか」です。

賢治は大正10年(1921)25歳の年に無断上京して日蓮主義の信仰団体・国柱会の活動に参加しました。そのころ、友人の保阪嘉内に、今や自分の身命は日蓮聖人のものだというような手紙を出しています。

ところが、日蓮ゆかりの寺院、いわゆる霊跡寺院を賢治が訪れた形跡がまったくないのです。賢治が東京で暮らした文京区・台東区の近くでは千葉県市川市に中山法華経寺がありますが、どうも参拝した形跡がない。池上本門寺にも身延にも。これは一般の法華信者とは明らかに距離のあることです。

鎌倉は日蓮ゆかりの寺院がたくさんあります。しかし、そのようなわけで賢治は鎌倉にも行かなかったと思われます。

それはともかく、鎌倉賢治の会によばれたおかげで、賢治と法華経について改めて考えてみる機会になりました。それで「法華堂建立勧進文」を改めて読んでみました。

これは「勧進文」としては具合の悪い文書なのですが、いかにも賢治らしい文で、若い賢治の意気込みが感じられます。今回からしばらく、このブログ上で「法華堂建立勧進文」を読んでいきたいと思います。

身照寺建立一件「法華堂建立勧進文」1へ

ところで、鎌倉は葉桜の季節を迎えていましたが、八重桜は満開。鶴岡八幡宮の牡丹も満開でした。

ボタン

賢治誕生小 悪人列伝小
「宮沢賢治の誕生」「イーハトーブ悪人列伝」
(大角修)

宮沢賢治・銀河鉄道の燃料 

それはカルマン、すなわち生前の業であろう。
『看取りの後に』「おわりに──今生の別れ」より)

『銀河鉄道の夜』は、夜空をゆく死者たちの列車の物語である。
 丘の上に天気輪の柱というものが立つとき、その汽車の音が聞こえてくる。「小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剝いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐる」のだが、みんな死んだ人たちである。
 ただ、主人公のジョバンニだけは、いつのまにか、どこまでも行ける切符を持たされて、生きたまま乗せられた。

 その汽車は、絵本やアニメでは石炭が燃料のSLのように描かれるが、そうではない。 ジョバンニが「この汽車石炭をたいていないねえ」と言うと、先に列車に乗っていたカムパネルラは「アルコールか電気だろう」と答えた。
 銀河鉄道の燃料はカルマン、すなわち生前の業というものであろうと私は思う。あの世の旅についてくるのは自分自身の業ごうだけだといわれるのだから。
(中略)
 昭和八年(一九三三)九月二十一日に宮沢賢治が三十七歳の若さで病没した日も、父の政治郎が「何か言っておくことはないか」と問い、賢治は国訳法華経を一千部をつくって友人知己に配ってほしいと頼んだ。
 それが今生こんじょうの別れの言葉だ。

 没後、それは実行され、「私の人生の仕事はこのお経をあなたの御手許に」届けることだったという賢治の言葉を添えて『法華経』が配られた。
 その後、政治郎は「賢治には前世に永い間、諸国をたった独りで巡礼して歩いた宿習があった」と語っていたということである。


天気輪の柱について

看取り小看取りの後に
(大角修)

宮沢賢治と仏教6 

「仏の国イーハトーブ」6
(承前)「宮沢賢治と仏教」5
イーハトーブ創世の試み その3

◉讃歌とユーモア
 近代文学はペシミスティックな傾向が強く、賢治においても『永訣の朝』などの悲劇的な作品の評価が高い。しかし、「メンタルスケッチ」だという詩集『春と修羅』には「真空溶媒」「蠕虫舞手(タアンネリダンツエーリン)」などのコミカルな作品がある。他の詩や童話にもユーモラスな作品が多い。
 そのユーモアも「たゞ純真に法楽すべし」という創作の心構えから生じるのだろう。法華経「如来寿品」の自我偈に「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も/我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」とあるように、現実にはつらいことが多くても、必ず救いはある。
 だから賢治は、讃歌をたくさん作った。とりわけ最後の作品群の文語詩には、悲喜こもごもの些末な現実を生きる人々への共感と同情をこめて静かな讃歌が流れている。一篇だけ、「塔中秘事」の後半二行をあげる。

歓喜天そらやよぎりし、 そが青き天(あめ)の窓より、
なにごとか女のわらひ、栗鼠ごと軋(きし)りふるへる。

 この詩は昭和八年(一九三三)八月に病床で清書した「文語詩稿一百篇」にある。下書きでは「脱穀塔」という表題だった。小岩井農場の穀物倉庫のことらしい。その下書き稿と歓喜天の語から男女の秘め事だとも解釈されるのだが、秋の稔りこそは神秘なものの働きであり、秘事である。それを讃える神々や精霊を歓喜天と呼んだと考えたい。
 その稔りを採り入れて脱穀作業をしている倉庫は、まさに神秘を蔵した霊塔である。その天の窓を歓喜天がよぎり、働く女たちは明るく笑っている。
 この文語詩稿を清書した翌月の九月二十一日、賢治は三十七歳の生涯を閉じた。その年、稗貫郡一帯(今の花巻市)は豊作だったらしい。稔りを祝う三日間の秋祭りを詠んだ短歌二首が絶筆となった。それも透明な讃歌である。

方十里稗貫のみかも稲熟(う)れて
  み祭り三日そらはれわたる

(いたつき)のゆゑにも朽ちんいのちなり
  みのりに棄てばうれしからまし
(以上で『大法輪』に寄稿「仏の国イーハトーブ」終)

宮沢賢治〈丘の向こうに〉最初の記事

宮沢賢治と仏教1

著書『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』へ
宮沢賢治・文語詩の読み方

  『イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら』へ


賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

宮沢賢治と仏教5 

「仏の国イーハトーブ」5
(承前)「宮沢賢治と仏教」4へ
イーハトーブ創世の試み その2

◉自己犠牲の物語
 冷害の年に気温を上げるために火山を爆発させて死ぬ『グスコーブドリの伝記』が著名。その自己犠牲を命じるのは、やむにやまれぬ心である。
 農学校の教師である「私(賢治)」が泳げないのに生徒を連れて北上川で遊ぶ実話ふうの短編『イギリス海岸』には、「もし溺(おぼ)れる生徒ができたら、(中略)たゞ飛び込んで行って一諸に溺れてやらう、死ぬことの向ふ側まで一諸について行ってやらう」と記されている。
 『雨ニモマケズ』で繰り返され、手帳に大きく書かれた「行ッテ」も、『銀河鉄道の夜』でカムパネルラが川に落ちたザネリを助けて自分が死んだのも「行ッテ」の声に命じられてのことだろう。

 「行ッテ」は倫理や道徳、世間体や損得などの一切の判断を超えた心の叫びである。『春と修羅』補遺の『〔堅い瓔珞(ようらく)はまっすぐに下に垂れます〕』では、「水素よりもっと透明な/悲しみの叫び」と表現されている。
 その叫びは「いつかどこかで/あなたは聞きはしませんでしたか。/まっすぐに天を刺す氷の鎗の/その叫びをあなたはきっと聞いたでせう」と問いかけられる。

 その声は、人の心に直接に聞こえてくる。神や仏の勅(ちょく)というべき絶対の命令であって、宗教は〈人間の義務の体系〉であるのだが、それとは正反対の〈権利の体系〉である近代法の社会では、悲しみの叫びはバカバカしいものであるかのように遠ざけられてきた。

 しかし、2011年の東日本大震災では多くの人が義援の募金に応じたり、ボランティアとして被災地に行ったりした。みんなが心の叫びを聞いたからだ。そして、賢治が祈りをこめてつづった『雨ニモマケズ』が、いろいろな場所で朗読されたのである。

◉殺すものの話
 人も動物も、生きていくうえで他者の生命を奪い、不殺生の戒を犯す。このことは賢治の作品でも重大なテーマで、童話『やまなし』の青く美しい幻燈の谷川でも、クラムボンは鋭い嘴(くちばし)の鳥に捕られて殺される。
 この生存の宿命は『フランドン農学校の豚』『なめとこ山の熊』『よだかの星』などに典型的に描かれている。
 そのなかで、『フランドン農学校の豚』はナンセンスギャグみたいにコミカルな作品でもある。また、家畜を食肉とすることの是非を論じる『ビヂテリアン大祭』は架空の国際討論会で、今で言えばシンポジウム大会。その論争は、初めからビヂテリアン側が勝つに決まっている芝居だったから、「愉快なビヂテリアン大祭の幻想はもうこわれました。どうかあとの所はみなさんで活動写真のおしまゐのありふれた舞踏か何かを使ってご勝手にご完成をねがふしだいであります」と終わる。近年は小学校教育にも採り入れられているディベートの日本初の文例ともいえる愉快な作品である。

その3
◉讃歌とユーモア


宮沢賢治〈丘の向こうに〉最初の記事

宮沢賢治と仏教1

著書『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』へ
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賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

宮沢賢治と仏教4 

「仏の国イーハトーブ」4
(承前)
イーハトーブ創世の試み その1

◉直接的に仏教の表現が見られる作品
 童話『マグノリアの木』=巡礼の修行者らしい諒安が山中で不思議な子どもたちに出会い、「マグノリアの木は寂静印です」という声を聞く。聖徳太子の玉虫の厨子の絵にある雪山童子の物語を思わせる童話だが、仏典の蓮華が木蓮の類の学名マグノリアに転じているほか、「サンタ、マグノリア」とキリスト教色も強い。また、盛岡高等農林時代の同人誌『アザリア』に発表した先駆形の短編『〔峯や谷は〕』は人の心がさまざまな世界をつくり、善悪不二であるという天台本覚門の影響が強い。菩薩の道は絶対の善ではなく、悪人正機でもある。

 童話『ひかりの素足』=一郎と楢夫の兄弟が雪の峠道で遭難して鬼に死の国に追い立てられるとき、「にょらいじゅりゃうぼん」を唱えると、如来の明行足を暗示する「まっ白なすあし」の人が現れる。

 詩『オホーツク挽歌』=死んだ妹トシの魂に呼びかける旅の詩で詩集『春と修羅』の一篇。二度、法華経の経題のサンスクリットによって、「(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)」とある。

 童話『四又の百合』=子どもが百合を「正偏知」に百合を捧げる話で、『ジャータカ』に語られる釈迦の前世、燃燈仏の物語に着想を得たと思われる。

◉宝玉のイメージ
 日本の伝統的な浄土観は古寺の静かな庭のようだけれど、浄土経典や法華経の仏の国はまったく異なり、大地はどこまでも平らな瑠璃や玻璃で、七宝の樹木や楼閣が並び立っているという。賢治の作品にしばしば登場するキラキラした宝玉の記述は、諸経典に説かれている仏国土の輝きであろう。

 童話『インドラの網』=ツェラ高原の過冷却の湖畔で、旅人は「透明清澄で黄金で又青く幾億互に交錯し光って顫えて」燃えているインドラの網を見た。宝網が天にかかるようすは法華経では「見宝塔品」などにある。
 詩『冬と銀河ステーション』=詩集『春と修羅』の最後。「パツセン大街道のひのきから(中略)/紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや/もうまるで市場のやうな盛んな取引です」と賑やかな耀きで幕を閉じる。

 そのほか、童話『どんぐりと山猫』の黄金の野原、『ポラーノの広場』のつめくさの明かりがともる夜の野原、『雪わたり』のどこまでも平らな青い月明かりの雪原、『十力の金剛石』の「天河石(アマゾンストン)のりんだう」なども仏の国の情景のようである。ただし、「十力の金剛石」は「かすかににごることもあります」し、童話『貝の火』では、兎の子のホモイがもらった玉の中で美しく燃える貝の火は、たった六日で消えてしまった。


イーハトーブ創世の試み その2
◉自己犠牲の物語◉殺すものの話へ

その3◉讃歌とユーモア


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宮沢賢治と仏教3 

仏の国イーハトーブ3 法華文学ノ創作

(承前)
 賢治は大正十年(一九二一)年に法華信仰団体の国柱会を訪ねて「法華文学ノ創作」をめざしたころを回想して『雨ニモマケズ手帳』に次のように記している。

筆をとるやまず道場観/奉請(ぶしょう)を行ひ所縁/仏意に契(かな)ふを念じ/然(しか)る後に全力之/に従ふべし

「道場観」は法華経の如来神力品にある「当知是処 即是道場(当に知るべし是の処は即ち是れ道場なり)」という言葉である。賢治は、写経をするような敬虔さで作品を書いたのだった。だから賢治は自分の童話について母イチに「ありがたいほとけさんの教えを、いっしょけんめいに書いたものだんすじゃ」と語ったという。
 そうであるなら、賢治の作品は全て仏の教えを語るものである。しかし、『小岩井農場』は仏教詩だなどと言えば〈我田引水の深読みだ〉という誹りを受けるだろう。
 何より、「ラリツクス ラリツクス いよいよ青く」の「ラリツクス」はカラマツのことだけれど、詩の中ではあくまでも「ラリツクス」であって、他に言い換えることはできない。「透明な軌道」も、それを仏道だと言ってしまっては賢治の言語宇宙は破壊されてしまう。
 賢治の詩や童話は、全体として、さまざまに表現が試みられた「イーハトーブ」という仏国土の創世記なのだろう。ただし、その意図は「断じて教化の考えたるべからず! たゞ純真に法楽すべし」(『雨ニモマケズ手帳』)という自戒によって秘され、まったく仏教は関係ないと思われる作品もある。
 また、インスピレーションを得た仏典は法華経に限らない。「みちのくは風の巡礼」(詩『五輪峠』先駆形)という風土の影響はもとより強く、生家の真宗、盛岡中学時代の参禅やキリスト教の教会通いなども心身にしみて表現はさまざまである。以下、その試みが典型的に見られる例をあげたい。(次の記事へ)

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