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宮沢賢治と法華経2 

『全品現代語訳 法華経』で3か所で宮沢賢治について触れた。その1は「道場観と宮沢賢治の「雨ニモマケズ」、次に[第二十六章]神呪妙法蓮華経陀羅尼品第二十六
[コラム]陀羅尼と祈り


全品法華経大 『全品現代語訳 法華経』

 宮沢賢治に毘沙門天の陀羅尼を詠みこんだ詩があり、陀羅尼の本質的なところを表しているので紹介しておきたい。

  祭日〔二〕 文語詩未定稿

 アナロナビクナビ 睡たく桐咲きて
 峡(かい)に瘧(おこり)のやまひつたはる

 ナビクナビアリナリ 赤き幡(はた)もちて
 草の峠を越ゆる母たち

 ナリトナリアナロ 御堂(みどう)のうすあかり
 毘沙門像に味噌たてまつる

 アナロナビクナビ 踏まるゝ天の邪鬼
 四方につゝどり鳴きどよむなり 

 この詩の「御堂」は岩手県花巻市の成島毘沙門堂であると推定されている。その毘沙門像は平安時代の作と伝える重要文化財で、この詩の「御堂」も古いものであると思われる。古木の森に堂は神さび、晴れた日でも堂内は暗い。そんな仏堂であろう。

 その毘沙門堂の祭礼の日、おりから峡(谷間)の村には瘧(熱病)がはやっていた。病気の子を悲しむ母たちは陀羅尼を唱えながら峠を越え、毘沙門天に供物の味噌を供える。

 この詩は毘沙門天の陀羅尼「アリ・ナリ・トナリ・アナロ・ナビ・クナビ」の中途から始まり、一部が重なりながら四句目で一巡する。母たちはくりかえし唱えているのだろう。そして、古びた暗い堂内には灯明に照らされて、遠い祖先から伝えられ、人の一生を超えたものがある。

 伝統の宗教は、信じるか信じないかの二者択一のレベルにあるものではない。初詣や寺社の縁日に多い受験合格や家内安全祈願は、特に信仰があるから、そうするというわけのものではないように、陀羅尼には仏や神々の力がこもるといっても、それを頭から信じている人は、あまりいないであろう。しかし、桐の花が咲く睡たげな初夏でも人里に病は伝わり、人は苦しみを避けることはできない。だから、人は祈る。たとえ医師の治療を受けていても、重い病気であれば神仏に祈るのが通常の人の心である。

 この詩にある瘧は童病ともいい、激しい熱発に苦しむ子をみる親はつらい。といって、医者にもみせずに祈願するというのでは、狂信の世界に陥る。賢治の時代の農村の医療は貧しいものだったとはいえ、熱さましの置き薬ぐらいはあっただろう。土地に伝わる民間療法もあっただろう。母たちは精一杯の手当をしたうえで、おりから祭礼の毘沙門堂に草の峠を越えて行くのであり、そこに切々たる思いがある。「草の峠」は苦しみ多い人生の山谷を暗示し、毘沙門天の幡でも持っていなければ越えられないことを感じさせる。

 しかし母たちは、打ちひしがれているのではない。この詩は生きることの哀愁をたたえているが、反面、若やぐ初夏を歌う。カタカナ表記の陀羅尼が軽快に音を刻み、結語の「四方につゝどり鳴きどよむなり」は、ホトトギス科のツツドリが鳴く若葉の候の自然のなかに全体を包み、病苦をも乗り越えていく健気な人生を、母たちが生きていることを示している。

 伝統の祭礼は、そういう力強いものであった。祭礼においては、信じるとか信じないというレベルを超えて、神や仏と呼ばれる大きなものと人は出会う。それを祖先とか祖霊と呼んでもよい。また祭礼には、流れゆく日常に区切りをつけて新しく時を再生する機能があり、そこから生きる力が引き出される。もし寺も神社も祭礼もなければ、人生はひどく乾いたものになってしまうだろうし、そもそもそんな社会はありえない。

 岩波文庫『法華経』(坂本幸男・岩本裕訳・改版一九七六年)の解説によれば、そもそも陀羅尼は神々の名または異名の呼びかけの語形で記されたものだという。とすれば、祝詞または神楽のような奉納劇で唱えられたものであろう。法華経のなかで陀羅尼品はもっとも解釈の難しい部分であるが、それは思想的に陀羅尼を理解しようとするからであって、種々の演目の神楽を次々に演じる祭礼のような場面と考えれば、躍動する人の心が伝わってくる。おそらく、大勢で陀羅尼を唱える法会を背景として陀羅尼品が成立したのだろう。


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法華経と宮沢賢治1 

近著の『全品現代語訳 法華経』で3か所で宮沢賢治について触れた。
まず[コラム]道場観と宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を順次アップしたい。

全品法華経大 『全品現代語訳 法華経』

「如来神力品」のうち313ページの「即是道場」の部分の経文は「道場観」とよばれ、とりだして読誦される。

当地是処 即是道場(トオチイゼイシヨオ ソクゼエドウジヨウ)
諸仏於此 得三菩提(シヨオブツオーシイ トクサンボーダイ)
諸仏於此 転於法輪(シヨオブツオーシイ テンノウホウリン)
諸仏於此 而般涅槃(シヨオブツオーシイ ニーハツネエハン)

 ここでいう道場は修練の場所のことではなく、釈迦の成道の地ブッダガヤの金剛宝座(ブッダガヤ大塔の下にあり、今も世界の仏教徒が参詣するところ)を原点とする諸仏のさとりの場である。それは時空と生死を超えて今この場にあるという。曹洞宗の開祖=道元(一二〇〇〜一二五三年)が臨終のときに唱え、みずから壁に記したのも、この部分の経文だった。

 ところで、前ページの道場観のルビは宮沢賢治(一八九六〜一九三三年)が友人あての手紙(書簡389)に書いているもので、そのように唱えたのだろう。賢治は法華経を信奉した作家で、『雨ニモマケズ手帳』に「筆ヲトルヤマツ道場観奉請ヲ行ヒ 所縁仏意ニ契フヲ念ジ 然ル後ニ全力之ニ従フベシ」というメモを記している。童話や詩を書く前にまず道場観を唱え、その作品が仏意(如来の心)にかなうものであるように念じたのだ。

 宮沢賢治は昭和八年に三十七歳の若さで病没した。その後、賢治の旅行かばんの中から「雨ニモマケズ」が書かれていることから『雨ニモマケズ手帳』とよばれる手帳が見つかった。

 そのかばんには、父母と弟妹あての二通の手紙もあった。日付は昭和六年の九月二十一日、北上山地の石灰石製品の販路を広げるために上京し、高熱を発して倒れこんだ旅館で書いたものだ。それは「今生で万分の一もついにお返しできませんでしたご恩はきっと次の生又その次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願いたします」(父母あて)等と書かれた遺書だった。その時期の手帳に記された「雨ニモマケズ」も、もしも来世があるなら「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」という願いをあらわし、続いて「南無妙法蓮華経」の題目がしたためられている。
 そして、その手帳の鉛筆差しに押し込まれた紙に次の短歌が書かれていた。

  塵点の劫をし過ぎていましこの 妙のみ法にあひまつりしを

 過去の永遠の時を過ぎて今ようやく「この妙のみ法」、すなわち法華経に出会うことができた。今生は満足なこともできず、もはやこれまでだとしても、「すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ」(詩「小岩井農場」)のだし、「善逝の示された光の道」(童話「雁の童子」)を行くのであれば、「みんなのほんとうのさいわいをさがしに行く」(童話「銀河鉄道の夜」)ことだってできるはずである。

 こうした賢治の言葉の意味するところは、長い歴史のなかでつちかわれた感覚が大きく失われた今では、たいへんわかりにくくなってしまった。辞書をひくと「塵点劫」という言葉の意味は書かれているけれど、「世界をすりつぶして塵にして……」といった説明にかえって戸惑いが深まってしまう。しかし、本書をここまで読んでくださった方には、よくわかることではないだろうか。


hokekyo_317.jpg「雨ニモマケズ」末尾(『全品現代語訳 法華経』より)

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宮沢賢治と新渡戸稲造シンポジウム 

明治・大正の精神[洋行の世紀から脱近代へ]

宮沢賢治と新渡戸稲造はともに没後84年。4月1日、八重洲ブックセンターにて「イーハトーブの風・トキオの風」のコンサート、シンポ、「銀河鉄道の夜」の映画会があります。プログラムはちらしのとおりです。

180401セミナーちらし

午後のシンポに出席します。冒頭、簡単な基調報告をしてほしいということで「明治・大正の精神/洋行の世紀から脱近代へ」ということでまとめてみました。

幕末から明治初期にかけて洋行した人々が近代日本のリーダーになりました。なかでも最大規模だったのが岩倉使節団(明治4年6年)。総勢107名のうちほぼ半数はそのまま欧米諸国に留まる留学生でした。
英文で「武士道」を発表した新渡戸稲造はもちろん、賢治にも幕末〜明治初期の「洋行者」は大きな影響を与えました。賢治には「科学と宗教の統合」といった課題を与えます。

以下、大きくグリップすると、以下の流れをたどることができます。

◉新渡戸稲造(文久2年/1862〜1933)…日本的倫理の発見
 『Bushido: The Soul of Japan』(アメリカで出版1900・和訳『『武士道』1908)
◉宮沢賢治(明治29/1896〜1933)
 『春と修羅』『注文の多い料理店』(1924)
◉和辻哲朗(明治22年/1889〜1960)…日本論の先駆/『古寺巡礼』(1919)、『風土』(1931)

◉第一次世界大戦(1914〜18)
 シュペングラー(1880〜1936)著『Der Untergang des Abendlandes(西洋の崩壊)』第1巻(1918/和訳『西洋の没落』1926)…脱近代意識の誕生。ただし日本では「西洋の没落」に対して「東亜の興隆」という→太平洋戦争の敗戦後、反公害運動等を契機に脱近代の文脈で賢治が読まれる。

新刊の御案内
全品法華経
3月25日発売。追って内容を紹介します。
『全品現代語訳 法華経』角川ソフィア文庫
無量義経・妙法蓮華経・観普賢経の全十巻三十二品を収めました。


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宮澤哲夫『宮澤賢治 童話と〈挽歌〉〈疾中〉詩群への旅』 

宮沢賢治研究会の大先輩である宮澤哲夫さんから掲題の書が届いた。本書は2部に分かれる。第1部は「童話への旅」、第2部は「〈挽歌〉〈疾中〉詩群への旅」。

「旅」がテーマの作品を論じたということではない。「賢治自身の生が、限られた短い時間の〈せわしい旅〉の暗喩であり、また〈けわしい旅〉でもあった」(「アプローチの方法 まえがきにかえて」より)ということである。


「せわしい旅」というのは37歳で逝った賢治の短い生涯というより、『春と修羅』「序」にある「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」という言葉を連想させる。

「けわしい旅」も賢治の実際の人生が険しかったというより、盛岡高等農林時代の短歌「険しくも刻むこゝろの峯々に」をはじめ、いろいろな作品に出る「けわしい心の峰々」を思わせる。

昨夜、帰宅して書籍封筒をみたとき、宮澤哲夫さんの著書であることはすぐにわかって期待感にわいた。まず目に飛び込んできたのは、〈疾中〉の語だ。

〈疾中〉詩篇は賢治の生涯の大きな転換期に創作された。昭和3年(1928年)32歳の夏に肺の病が悪化し、羅須地人協会の活動を断念して賢治は生家に戻った。自身の死を見つめてつくられたのが〈疾中〉詩篇である。

そのなかに「病床」という二連の短詩があり、作品集では冒頭に置かれる。

 たけにぐさに
 風が吹いてゐるといふことである

 たけにぐさの群落にも
 風が吹いてゐるといふことである


この詩は何か深いものを感じさせるが、俳句のように情景を詠んでいるだけなので、解釈のとっかかりもないところがある。それを宮澤さんはどう読み解かれるか。目次等のほか、本文からそのページのみアップさせていただく。

宮澤著00表紙画像はクリックで拡大します)
『宮澤賢治 童話と〈挽歌〉〈疾中〉詩群への旅』蒼丘書林2016.9.12


宮澤著01もくじ01 宮澤著02もくじ02
もくじ

宮澤著04病床01 宮澤著04病床02
疾中

宮澤著03あとがき01 宮澤著03あとがき02
あとがき(大角修)

八重洲ブックセンター・賢治トーク 

8月に宮沢賢治生誕120年、9月21日には没後83年を迎えます。花巻では恒例の賢治祭が催されますが、東京の八重洲ブックセンターでも記念の絵画展・トーク・朗読・コンサートの催し「イーハトーブの風・トキオの風」が9月20から24日の5日間おこなわれます。

24日13時から1時間ほど「空と海と」という題でお話しする予定です。

1609ブックセンター
(画像はクリックで拡大します)大角修

宮沢賢治「宇宙意志」を見据えて 

古い友人の長沼士朗さんが長年の研究成果を『宮沢賢治「宇宙意志」を見据えて』をコールサック社から上梓。序と目次、私が書かせてもらった跋文をアップします。

長沼01

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☞コールサック社



  画像はクリックで拡大します。
長沼序

目次
長沼02 長沼03 長沼04

跋文
長沼05 長沼06
(大角修)

宮沢賢治の曼荼羅本尊2 

宮沢家は真宗大谷派安浄寺の門徒だった。賢治が法華経に帰依してから、父の政治郎と激しく言い争うことがあったという。

この父子の争いは、浄土信仰と法華信仰の教義論争の観点から論じられていることが多いけれど、教義で激しく争うようなことは、あまり考えられることではない。

親戚の関徳彌によれば、国柱会から届いた大曼荼羅本尊を賢治は経師屋に注文した掛け軸で賢治自身が表装し、仏壇に勧請した。「その日の読経や式の次第は実にりっぱで、後に控えている私はそのりっぱさに感動したものです」(関『賢治随聞』)ということだが、そのりっぱな読経の声は、階下の家族を困惑させた。

 また、賢治は十二月には寒修行と称して花巻の夜の街を「南無妙法蓮華経」と高らかに唱題して歩いた。ある夜、政次郎が関の家に来ていたときに雪道を歩いてくる賢治の「南無妙法蓮華経」が聞こえてきた。政次郎は「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くしたという(関『同』)

こうしたことに加えて、賢治が父に家の転宗を迫ったことが対立の一番の理由になっただろう。

転宗となれば、先祖代々の菩提寺との縁を切ることになり、親戚とのつきあいも変わる。盆・彼岸の行事や年忌法要の習わしも変わり、仏壇も取り替えねばならない。宮沢家の墓は菩提寺の安浄寺にあったので、それも移転する必要がある。そうした実際のくさぐさが非常にやっかいだ。

これは信仰がどうのという問題ではない。息子が転宗を言い出したりすれば、家長たる父親が怒らないほうがおかしい。政次郎も激しく怒ったようだが、父は「困ったことをするものだ」と関が書き伝えているように、暗然たる気分だったというほうが近いだろう

さらに、宮沢家の困惑は2つの仏壇にあっただろう。1階で父ら家族が「南無阿弥陀仏」ととなえれぱ、賢治が2階で「南無妙法蓮華経」ととなえる。そんな事態が生じたのである。

そして賢治の没後も、宮沢家には2つの仏壇がある状態が続いた。以下、次回。


☞日蓮の法華経

☞宮沢賢治の曼荼羅本尊
賢治曼荼羅

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  『イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら』へ


賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

宮沢賢治の曼荼羅本尊 

日蓮の曼荼羅をとりあげたついでに宮沢賢治の曼荼羅本尊について。☞「日蓮の曼荼羅を絵解き」

賢治は24歳の大正9年(1920)10月か11月ころ、法華信仰団体の国柱会に入会。翌年1月には上京して8月頃まで、その活動に参加した。それは進路に悩んだ時期であり、友人の保阪嘉内あての手紙などには過激な法華信仰が見られる。この時期の賢治については『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』で論じた。

その後、花巻に戻ってからは過激な法華信仰の主張はなくなるが、国柱会から与えられた大曼荼羅は生涯、自身の本尊として持しつづけた。

宮沢賢治の大曼荼羅本尊
賢治曼荼羅
(http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/index.htmlより)

この曼荼羅は現存しない佐渡始顕の大曼荼羅(☞「日蓮の法華経」参照)の写しだと伝えている。書き込まれている文字は他の大曼荼羅と同じだが、大きく異なる特色がある。

上部に、左右振り分けの形で「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」と書き込まれている。読み下せば「もし人、病あり、この経(法華経)を聞くを得れば」「病は即ち消滅し不老不死なり」となる。

日蓮は数多く曼荼羅をあらわして弟子や信徒に与えた。そのなかで、この文字をもつ曼荼羅がどれくらいあるのか。法蔵館の『日蓮聖人真蹟集成』で調べたことがある。

収録120点ほどの曼荼羅のうち、この文字があるのは確か3点か4点ほどだった。レアな例である。おそらく、自分か家族が重い病気で苦しむ弟子か信徒を励まして授けた本尊ではないかと思われる。

賢治は、若く病死した妹のトシを悼んで「永訣の朝」「無声慟哭」などの痛哭の詩をつくったほか、賢治自身も結核で肺を病み、37歳で没する。

賢治は病気に苦しみつづけた。ところが、本尊に記された「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」の言葉については何も語っていない。

なお、賢治の曼荼羅は後に宮沢家が日蓮宗に転宗するにあたって仏壇の本尊として祀られ、今日に至る。そこには父親の政次郎の思いをしのばせる証言がある。次回、触れたい。


☞過去記事「宮沢賢治と仏教1」

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身照寺建立一件 宮沢賢治「法華堂建立勧進文」1 

宮沢賢治の墓塔がある身照寺は日蓮宗の寺で、この季節、見事な枝垂れ桜に彩られます。桜は古木の風情ですが、この寺が建てられたのは新しいことで、賢治の時代には花巻に日蓮宗の寺はなかったのでした。

身延を故地とする南部家ゆかりの花巻に日蓮宗の寺を建立しようという運動をおこしたのが、遠野出身の日実で、それに賛同したのが、賢治の叔父の宮沢恒治です。

 この叔父の求めに応じて賢治が書いたのが「法華堂建立勧進文」です。
 鎌倉賢治の会で「なぜ賢治は鎌倉に来なかったのか」というテーマでお話ししたことがきっかけで、この勧進文を改めて読んでみることにしました。
 まず、その全文をお読みください。
 全集にもちろん収録されていますが、賢治作品が網羅されている森羅情報サービス「法華堂建立願文」をリンクします。
(大角修)

宮沢賢治はなぜ鎌倉に行かなかったのか 

鎌倉賢治の会に呼ばれて、昨日、行って来ました。演題は「宮沢賢治はなぜ鎌倉に行かなかったのか」です。

賢治は大正10年(1921)25歳の年に無断上京して日蓮主義の信仰団体・国柱会の活動に参加しました。そのころ、友人の保阪嘉内に、今や自分の身命は日蓮聖人のものだというような手紙を出しています。

ところが、日蓮ゆかりの寺院、いわゆる霊跡寺院を賢治が訪れた形跡がまったくないのです。賢治が東京で暮らした文京区・台東区の近くでは千葉県市川市に中山法華経寺がありますが、どうも参拝した形跡がない。池上本門寺にも身延にも。これは一般の法華信者とは明らかに距離のあることです。

鎌倉は日蓮ゆかりの寺院がたくさんあります。しかし、そのようなわけで賢治は鎌倉にも行かなかったと思われます。

それはともかく、鎌倉賢治の会によばれたおかげで、賢治と法華経について改めて考えてみる機会になりました。それで「法華堂建立勧進文」を改めて読んでみました。

これは「勧進文」としては具合の悪い文書なのですが、いかにも賢治らしい文で、若い賢治の意気込みが感じられます。今回からしばらく、このブログ上で「法華堂建立勧進文」を読んでいきたいと思います。

身照寺建立一件「法華堂建立勧進文」1へ

ところで、鎌倉は葉桜の季節を迎えていましたが、八重桜は満開。鶴岡八幡宮の牡丹も満開でした。

ボタン

賢治誕生小 悪人列伝小
「宮沢賢治の誕生」「イーハトーブ悪人列伝」
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宮沢賢治・銀河鉄道の燃料 

それはカルマン、すなわち生前の業であろう。
『看取りの後に』「おわりに──今生の別れ」より)

『銀河鉄道の夜』は、夜空をゆく死者たちの列車の物語である。
 丘の上に天気輪の柱というものが立つとき、その汽車の音が聞こえてくる。「小さな列車の窓は一列小さく赤く見え、その中にはたくさんの旅人が、苹果を剝いたり、わらったり、いろいろな風にしてゐる」のだが、みんな死んだ人たちである。
 ただ、主人公のジョバンニだけは、いつのまにか、どこまでも行ける切符を持たされて、生きたまま乗せられた。

 その汽車は、絵本やアニメでは石炭が燃料のSLのように描かれるが、そうではない。 ジョバンニが「この汽車石炭をたいていないねえ」と言うと、先に列車に乗っていたカムパネルラは「アルコールか電気だろう」と答えた。
 銀河鉄道の燃料はカルマン、すなわち生前の業というものであろうと私は思う。あの世の旅についてくるのは自分自身の業ごうだけだといわれるのだから。
(中略)
 昭和八年(一九三三)九月二十一日に宮沢賢治が三十七歳の若さで病没した日も、父の政治郎が「何か言っておくことはないか」と問い、賢治は国訳法華経を一千部をつくって友人知己に配ってほしいと頼んだ。
 それが今生こんじょうの別れの言葉だ。

 没後、それは実行され、「私の人生の仕事はこのお経をあなたの御手許に」届けることだったという賢治の言葉を添えて『法華経』が配られた。
 その後、政治郎は「賢治には前世に永い間、諸国をたった独りで巡礼して歩いた宿習があった」と語っていたということである。


天気輪の柱について

看取り小看取りの後に
(大角修)

宮沢賢治と仏教6 

「仏の国イーハトーブ」6
(承前)「宮沢賢治と仏教」5
イーハトーブ創世の試み その3

◉讃歌とユーモア
 近代文学はペシミスティックな傾向が強く、賢治においても『永訣の朝』などの悲劇的な作品の評価が高い。しかし、「メンタルスケッチ」だという詩集『春と修羅』には「真空溶媒」「蠕虫舞手(タアンネリダンツエーリン)」などのコミカルな作品がある。他の詩や童話にもユーモラスな作品が多い。
 そのユーモアも「たゞ純真に法楽すべし」という創作の心構えから生じるのだろう。法華経「如来寿品」の自我偈に「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も/我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」とあるように、現実にはつらいことが多くても、必ず救いはある。
 だから賢治は、讃歌をたくさん作った。とりわけ最後の作品群の文語詩には、悲喜こもごもの些末な現実を生きる人々への共感と同情をこめて静かな讃歌が流れている。一篇だけ、「塔中秘事」の後半二行をあげる。

歓喜天そらやよぎりし、 そが青き天(あめ)の窓より、
なにごとか女のわらひ、栗鼠ごと軋(きし)りふるへる。

 この詩は昭和八年(一九三三)八月に病床で清書した「文語詩稿一百篇」にある。下書きでは「脱穀塔」という表題だった。小岩井農場の穀物倉庫のことらしい。その下書き稿と歓喜天の語から男女の秘め事だとも解釈されるのだが、秋の稔りこそは神秘なものの働きであり、秘事である。それを讃える神々や精霊を歓喜天と呼んだと考えたい。
 その稔りを採り入れて脱穀作業をしている倉庫は、まさに神秘を蔵した霊塔である。その天の窓を歓喜天がよぎり、働く女たちは明るく笑っている。
 この文語詩稿を清書した翌月の九月二十一日、賢治は三十七歳の生涯を閉じた。その年、稗貫郡一帯(今の花巻市)は豊作だったらしい。稔りを祝う三日間の秋祭りを詠んだ短歌二首が絶筆となった。それも透明な讃歌である。

方十里稗貫のみかも稲熟(う)れて
  み祭り三日そらはれわたる

(いたつき)のゆゑにも朽ちんいのちなり
  みのりに棄てばうれしからまし
(以上で『大法輪』に寄稿「仏の国イーハトーブ」終)

宮沢賢治〈丘の向こうに〉最初の記事

宮沢賢治と仏教1

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宮沢賢治・文語詩の読み方

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賢治誕生小 悪人列伝小
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