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豊洲新市場の風評被害を防げるのか 

土壌中のベンゼンを土盛りして遮断するはずの豊洲新市場の主要建物の地下が空洞で、土盛りされていないことが明らかになり、都への信頼が大きく揺らいだ。このままでは福島みたいな風評被害が広がりかねない。当時の民主党政権があいまいな情報を次々に発表しては訂正等を重ねたために信頼を失い、原発から遠い会津地方を含めて福島全県の農産物が根拠のない風評被害に見舞われた。産地の涙ぐましいほどの努力にもかかわらず、今も完全にはぬぐえていない。

今朝、テレビを見ていたら、ベンゼンの有害性を説明するのに、かつてタンカーの油槽内部の清掃中に起こった作業員の死亡事故に触れていた。タンカーの油槽内部のベンゼンの濃度と土壌から大気中に蒸発する濃度は比べものになるまい。にもかかわらず、ベンゼン=死亡事故=猛毒というイメージを植え付けている。

ベンゼンは以前は家庭用にも販売されていた揮発油で、よく染み抜きに使われた。発がん性が指摘されて今は家庭用の揮発油としては売られていないが、ガソリンには含まれているようだ。長期に吸引するとガンを引き起こす危険がある有害物質だという。しかし、猛毒というわけではない。たとえ地下から魚市場の建物内に蒸発してかなりの濃度になっても、その魚を食べてガンになるほどの毒性はあるまい。ただし市場で働く人は長期に吸引することになり、危険であろう。

今回の隠蔽の裏には、都の担当部局や設計・施工者の側に、盛り土に対して「ベンゼンごときでそこまでやる必要があるのか」「何も知らない連中が〈食の安全〉をがなりたてるのには、うんざりだ」といった意識が暗黙のうちにあるのではないだろうか。設計は変更したけれど、表に出すと市民団体がうるさいし、反対運動がぶり返すから、そっとやってしまおうと思ったのだとしたら、「民には知らしむべからず」の愚民策で、情報公開の意義を知らない愚かなことだ。

生鮮食料の市場としては、ベンゼン以上に緊急の危険がある。O-157などの細菌で、食中毒や深刻な感染症を引き起こし、多数の死亡者が出る可能性がある。築地でハエが発生しないのは塩水で清掃しているからだが豊洲新市場では塩水を使えないということも聞く。そのあたりの衛生管理は、どうなっているのか。

また、海洋に漂うマイクロプラスチックス、PCB、ダイオキシン類などが市場で取引される魚介類の可食部分にどの程度含まれているのか。青果の残留農薬はどうなのか。それらの検査体制と、わかりやすく公表する仕組みはどうなっているのか。そうした衛生管理体制の全体を公表し、そのなかにベンゼンなど有害物質の検査のしくみも位置づけるべきであろう。

公衆衛生には世界に冠たる実績をもつ日本で巨費を投じて建設する新市場であるからには「〈食の安全〉を極めた世界でもっとも衛生的な市場」を目指したのではなかったのか。

このまま信頼を欠いてベンゼン問題ばかりがクローズアップされると、「豊洲市場の魚も野菜も毒だ」という風評が広がりかねない。それを防ぐには、新市場の衛生管理の全体像をわかりやすく公表し、批判を恐れず説明していくことしかあるまい。一部に隠蔽があると全体の信頼を失うのだから、たとえ不都合な事実でも公表するしか道はない。

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映画『シン・ゴジラ』と宮沢賢治『春と修羅』 

初の緑の日に『シン・ゴジラ』を観てきた。オープニングは東京湾に漂う無人のレジャーボート、そのキャビンのテーブルに詩集『春と修羅』が置かれている。意味ありげなシーンなので、ネットの評判にもなっているようだ。

最初のゴジラは1954年、核兵器をつくった人類の愚かさをテーマとして登場した。アメリカ映画の『GODZILLA 』はスピーディな動きで見せたが、『シン・ゴジラ』は原点に戻って核兵器が重要なテーマになっている。詩「春と修羅」の「はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」という怒りが、それを暗示しているのだろうか。

詩「春と修羅」では「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」の「腐植の湿地」にも「正午の管楽よりもしげく/琥珀のかけらがそそぐ」し、「れいらうの天の海には/聖玻璃(せいはり)の風」が行き交う。

希望は失われない。
それが『シン・ゴジラ』のメッセージになっているところも『春と修羅』に通じるといえよう。

結末を言うのはまだ観ていない人には申し訳ないが、最後にゴジラは巨大な立ち姿のまま凍結して終わる。アメリカ映画なら、ちょっと目が動いたりして「悪魔は滅びす」となるのが通例だが、『シン・ゴジラ』にそれはない。

じっと動かない姿は、どこか哀れだ。それも宮沢賢治の『春と修羅』ふうなのかもしれない。

(大角修)

参院選、投票しても無駄なのか 

昨夜、朝日TV報道ステーションを見て唖然。
18歳から選挙権が認められたけれど若年層の投票率が低い。女性キャスターが「投票に行きなさいと言われるから行く。私も義務感だけで行く」という。たぶん、自分が投票してもしなくても何も変わらないと思われているのだろう。

ゲストコメンテーターの日本史学者が、戦前は徴兵制で男子に兵役があったから選挙権は男子のみ、太平洋戦争の総力戦で女性も駆り立てられたから戦後に婦人参政権が与えられたという珍妙な自説を長々と語ったあと、初の18歳からの選挙になったけれど投票する動機が弱いから、商店街の商品券を与えるとか少し減税するとかの特典を考えないとだめだとおっしゃる。

そんな「おまけ」につられて投票されては、ますますポピュリズムが強まるだけだ。

そんなことより、参院選は3年ごとに必ずある。それに負けて内閣総辞職したり、ねじれ国会になったり、けっこう大きな変化があったことを、マスコミはきちんと報道すべきだ。1票は軽く思われても、全体としては大きな影響力を発揮してきた。

過去の参院選の結果と、それによって起こった変化、今度の参院選の結果によっては起こるであろう変化の予測を、高校生にもわかりやすく、さまざまな角度から報道するのがマスコミの使命ではないか。その情報が乏しいから「投票しても無駄」感が漂うことになる。

くだんのコメンテーターはベストセラー『武士の家計簿』の著者で、それは名著だと思うけれど、「投票したらご褒美を」みたいなバカげた提案ではなく、日本史学者として過去の歴史にかんがみ、いま、どんな変化や改善が必要なのかをコメントしてほしかったところである。

ちなみに過去の国政選挙の結果については、選挙データペース「国政.net」ttp://www.kokusei.net/senkyo/などで見ることができる。

朝日カルチャー日本仏教史開講 

4月24日から月1回、朝日カルチャーセンター新宿で日本仏教史を開講することになりました。

長らくブログの更新を休みましたが、この御案内を機に徐々に再開の予定です。

講座のテキストは『日本仏教史入門 基礎史料で読む』を用います。同書掲載の「日本書紀」等の史料に加え、朝鮮半島最古の史書「三国史記」なども取り上げる予定です。

下は朝日カルチャーのチラシです。


朝日カルチャー画像はクリックで拡大します。

オリンピックエンブレム、類似がいけないのか 

佐野研二郎さんデザインのエンブレムが取り下げになった。遠藤利明五輪担当相と武藤敏郎組織委員会事務総長は、審査委員会、佐野氏と三者三様の責任があると言っている。それなら、損害賠償に際して三者の責任の軽重に応じて分担するということになるが、そのようには聞こえない。誰にも責任はないと言っているように聞こえる。そんなことでは今後が思いやられるのである。

あのエンブレムが発表されたとき、私には2つの違和感があった。

ひとつは黒と赤の色彩が日本というよりドイツカラーだったこと。ちょうど自宅に近い国立歴史民俗博物館で開催中の「日独修好150年」の特別展のポスターと似ているといえばよく似ている。

もうひとつ非常に大きな違和感は「なぜ、Tなのか」。

今度のオリンピックは東日本大震災の復興をアピールして誘致活動が展開された。さらに、地方創生が大きな課題となるなかで、オリンピックで東京集中がいっそう進むのではないかと懸念されている。地方ではオリンピックは「東京で勝手にやってよ」とシラケているともいう。そんなときに「T」ではオールジャパンのシンボルにはなりえまい。

また、「T」はどうアレンジしても既存のロゴやマークと類似してしまうという声も発表直後から聞かれた。案の定、懸念されたとおりになってしまった。問題の発生当初からSTAP細胞の理研みたいになるんじゃないかと心配されたが、あれほどひどいことにならずにすんでよかった。

しかし、組織委員会ならぴに審査委員会は何を考えて「T」でよしとしたのか、その見識は疑わざるを得ない。

エンブレム取り下げは、ネット上で次々に佐野作品と似ている例が見つかり、佐野氏への激しいハッシングも起こったことが大きな理由になった。それに対して、今後は類似のデザインがないかどうかしっかり検証しなくてはならないといった意見が、その方面の研究者や弁護士、ニュースのコメンテーター等から多く聞かれる。

しかし、類似が悪いのだろうか。そもそも美術や意匠デザインには「時代の様式」というものがある。大正モダニズム、昭和レトロなど、その時代のデザインには大きく共通するところがあり、類似している。そうでなければ世の中の人々の気持ちにそぐわず、いいとも悪いとも感じないだろう。

それより大きな問題は、類似にナーヴァスになるあまり自己規制が過ぎて萎縮してしまうことだ。そうなったらつまらない。とりわけ、地方の自治体の観光誘致のロゴや来年の伊勢サミットのロゴなど、役所がからむところで自己規制が大きくなる気配が農耕である。

もちろん、守らなければならないルールがある。佐野氏はそれに違反したのである。それはサントリーのトートバックの図案盗用である。これは類似性の問題ではなく明らかに無断使用だった。スタッフがやったことだという言い訳は成り立たない。それゆえ佐野氏も取り下げたのだが、問題はオリンピック・エンブレムのイメージを大きく傷つけてしまったことである。

その時点でオリンピック・エンブレムも取り下げるべきだった。エンブレムのイメージを傷つけてしまった以上、自ら取り下げることが節義というものであろう。

かつての日本では信義とか節義ということが社会の重いルールだった。今は法的にどうかといったことばかりが取り上げられ、何かと言えば弁護士に意見が求められる。しかし法律とは関係なく、信義は今も生きている。

佐野氏は、「私はパクリということをやったことはない」と開き直り、いつまでも「エンブレムは盗用ではない」と言いつづけた。私もエンブレムのデザイン自体には訴訟に及ぶほどの問題はないのだろうと思う。しかし、佐野氏の発言は、信義にもとる。いさぎよくない。以後のパッシングはそのために発生した。

組織委員会では1年も多額の費用をかけて類似のものかないかどうかを検査し、いくつかあったのでデザインを修正したと発表したが、その類似のものとは何だったのか、そこにベルギー・リエージュ美術館のロゴは含まれていたのかどうかは未だに公表していない。

法的にどうかとか、個別事例の細部に限定して問題の矮小化を図り、かえって危機を深めてしまう。まったくまずい対応だった。

もし、トートバックの図案盗用が明らかになった時点で佐野氏自身がエンブレムも取り下げしていれば、恥を知り名誉を重んじるサムライとして世界にアピールできたかもしれないし、しばらく蟄居しても佐野待望論が世間に起こるかもしれない。

これから募集しなおしだが、今度は広く公開することを肝に銘じてほしい。じつは私は、今度のオリンピックのマークは桜のリースだと思っていた。佐野氏の「T」デザインは発表時の会見で何やかやと説明していたが、そんな説明をしなければならないところが、そもそもデザインとして失格である。桜のリースは一目で「ジャパン」をアピールし、説明は不要だった。

それなのに、桜のリースは招致エンブレムというもので、正式のエンブレムは「T」だと発表されて初めて知った次第である。多くの人がそうだったのではないか。

それというのも、応募資格が厳しくて多くの国民には関係ないような仕組みだったようだ。オールジャパンで盛り上げようというときにバカげた密室性というか、素人にはまかせられないという愚民観に支配されている。

今度は広く募集し、専門家の委員会で数例に絞り込んだあと、候補作品として公表して欲しい。早速ネットであれやこれやと話題になり、類似の作例も委員会の能力を遥かに超えて調べ上げてくれる。プライベートに人気投票のサイトも立ち上がるだろう。その大衆の意向を採用するかどうかは専門家の委員会で決定すべきだと思う。そのとき、どの作品を採用するにしても多くの人が納得できる説明をしなくてはならないことになる。
(大角修)

明治の徴兵事務条例 

国会議事堂周辺で安保関連法案をめぐって「徴兵制復活!」などのプラカードが立つかたわら、上野不忍池のほとりの古書の露店で『徴兵令 徴兵事務條例』明治十三年刊を見つけて購入した。

この「徴兵事務條例」は地方の兵事係のマニュアルで、「徴兵令」の条文に加えて徴兵検査の手続きや書式など一式である。私が入手したのは山梨県甲府常磐町の内藤傳右衛門が「お届け」して出版したもので、定価は「一金二十銭」。表紙に「幡埜私蔵」と記されている。
幡埜は「はたの」と読むのだろう。裏表紙には「幡野」と記名。

『徴兵令 徴兵事務條例』表紙
徴兵令表1 画像はクリックで拡大します。
上部に「明治十三年十月改正」と書いたあと、朱で「十貳年」に訂正している。

徴兵令は明治6年(1873)に陸軍省から発布。その後、太政官布告で何度か改定され、明治22年(1889)に法律として制定された。

この「徴兵令 徴兵事務條例」はその途上だが、軍の編成に「国民軍」という「国民」の名を用いたもの(17歳から40歳までの全国の男子を兵籍に記載して非常時に備えておくこと)があり、興味深い。司馬遼太郎氏が『「明治」という国家』で主張されているように、明治維新で生み出されたものは何よりも「国民」という意識であったからだ。

裏表紙にも書き込みがある。
徴兵令表4
紀元貳千五百四十年 明治十三年九月十五日
山梨縣南都留郡役所ニテ求之(之を求む)
海内日本皆兵也

裏表紙には「幡野」という記名が朱で2度も書かれている。「幡野」が誰だかわからないが、兵事関係の職を得た元武士(士族)ではないか。

甲州は武田氏の滅亡後、江戸時代には幕府の直轄地だった時期が長い。「幡野」は幕臣につながる下級武士だったのではないかと想像される。おそらく、当時の士族の多くと同じように零落した武士で、「幡野」の家名を誇りとしていたのだろう。

彼は南都留郡役所で「一金二十銭」をはたいて『徴兵事務條例』を贖った。のちに内容を紹介するときに触れるが、「幡野」の面目を保つには、このマニュアルを購入する必要があったからにちがいない。

「郡」は明治から戦前までは地方の行政単位だった。南都留郡は富士吉田市・富士河口湖町などの一帯で、郡役所は谷村(現・都留市)に置かれ、明治11年(1878)に発足。

当時、郡役所の建物はたいそう立派なものだった。隣接する東山梨郡役所(明治18年建築)が明治村に移築されて現存する。文明開化を地方に知らしめる洋風の建物である。
東山梨郡役所
東山梨郡役所 Wikipedia「東山梨郡役所」より
☞明治村・東山梨郡役所

南都留郡役所の建物は現存しない。また、幡野が『徴兵事務條例』を買い入れた明治13年に、このような洋風の庁舎ができていたか知らないが、維新の新風は甲斐の山中にも吹き渡っていた。

そのことは幡野が裏表紙に2度大書している「海内日本」という語によって感じられる。「海内かいだい」は、もとは仏教語の一天四海の内、つまり天下全体をいい、明治によく使われた。そのころの気分をあらわす語のひとつである。その「海内日本」は「皆兵也」と幡野は意気込むのである。

「海内皆兵」は明治初期の国民皆兵論のスローガンでもあった。

裏表紙に書き込まれている「紀元貳千五百四十年」は人皇初代の神武天皇の即位から数えて2540年という。といっても、その歴史は浅く、明治5年(1872)に政府が定めた紀元である。『日本書紀』の帝紀を元に計算したものだが、『日本書紀』では神武天皇の即位は元旦のことなのに、明治政府は欧米の太陽暦を採用して2月11日とした。戦前の紀元節、現在の建国記念の日である。

それについては「新・日本の歴史」第一巻に触れたので、その該当ページをアップする。

「皇紀元年」と建国記念の日
1巻p22-23

なお、神武紀元は江戸時代中頃から発達した国学で主張されるようになった。明治維新は国学に加えて、儒学が一体になった水戸学に大きく影響されている。それについては「新・日本の歴史」第五巻で触れた。その部分もアップしておきたい。

この部分には世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」に含まれる松下村塾も掲載したが、当時は水戸徳川家の藩校・弘道館のほうが遙かに大きく重要な存在だったことは言うまでもない。

『古事記』と『日本書紀』の再発見
歴史5巻p72

弘道館と松下村塾と攘夷論
歴史5巻p74

第5巻 江戸時代と日本人の心 江戸・明治時代以降 目次
新歴史5大 5巻目次

☞『新・日本の歴史シリーズ』について

(大角修)

解脱上人貞慶の『愚迷発心集』と明恵『摧邪輪』 

専修念仏弾圧の張本人というイメージで語られる南都興福寺の貞慶(じょうけい 1155-1213)は法相宗の学僧として知られるが、念仏停止を訴える「興福寺奏状」(☞承前)を書いたときは、笠置寺に隠遁していた。その名を解脱房(げだつぼう)といい、解脱上人(げだつしょうにん)、笠置上人とも呼ばれました。

ここには『浄土三部経と地獄・極楽の事典』から、解脱上人の『愚迷発心集ぐめいほっしんしゅう』と、同じく法然の念仏を批判した栂尾上人・明恵みょうえの『摧邪輪(ざいじゃりん)』の箇所を紹介します。

上人とは奈良・平安時代の権門寺社の序列から脱して、民衆の支持をうけた遁世や遊行の僧のことです。法然も貞慶も明恵も、ともに「上人」として世の人びとに尊崇されたのでした。

前掲の『日本仏教史入門』の文字組はあまりに手間がかかったので、レイアウトを変更しました。

『愚迷発心集』と『摧邪輪』

極楽p290 極楽p292
☞『浄土三部経と地獄・極楽の事典』
☞著作リスト
(大角修)

日本仏教史基本史料増刷 

『日本仏教史入門─基本資料で読む』(角川選書2009)が増刷・配本されました。近年、本の寿命がどんどん短くなるなかで、長く売れるのは嬉しいことです。

この本は「日本史の資料集」は各種あるのに仏教史の資料集がないという要望があったために制作しました。一部の仏教系大学で概論の教科書に使っていただいています。

それぞれの資料の原文(ただし漢文は読み下し)・現代語訳・語注を原則1見開きに収めるため、編集にはたいへん手間がかかりました。

やってみると、仏教史の解説を読むより、その時代ごとの文献を読んだほうが、よく理解できることを実感しました。

例として仏教史の大きなターニングポイントになった平安時代末期、いわゆる鎌倉新仏教が生まれてきたころの文献をあげます。名前は一般の日本史の教科書や本でもなじみのものですが、たぶん、栄西の『興禅護国論』などはあまり読まれていないものです。また、実際に読んでみると、今日の禅のイメージとはかなり異なることもわかります。

以下のページは連続です。画像はクリックで拡大します。

建永の法難(承元の法難)『愚管抄』
仏教史資料p192

法然の七箇条制誡
仏教史資料p194

興福寺奏状
仏教史資料p196

興禅護国論
仏教史資料p198 仏教史資料p200

この本は角川選書の中ではもっともページが多い本のひとつですが、もちろん、抜粋は一部で、取り上げる文献にも限りがあります。この時期については「興福寺奏状」を書いた貞慶の『愚迷発心集』も取り上げたかったもので、そこには貞慶が法然と同じく遁世僧であったことが記されています。

貞慶の『愚迷発心集』は『浄土三部経と地獄・極楽の事典 信仰・歴史・文学(春秋社2013)に取り上げました。次に紹介します。☞解脱上人貞慶の『愚迷発心集』と明恵『摧邪輪』

また、『法華経の事典 信仰・歴史・文学(春秋社2011)『法華経の御利益・功徳事典』(学研2012)など、この資料集から特定のテーマで補足・編集したものです


☞著作リスト
☞『日本仏教史入門─基本資料で読む』

(大角修)

著作リスト更新 

著作リストを更新しました。ブログを2年あまり中断している間にたまってしまいました。おりおり紹介していきます。
☞著作リスト

(大角修)

お爺ちゃんと大砲 

北岡武司君から訳著『お爺ちゃんと大砲』が送られてきた。ブログを中断していたときのことなので、改めて紹介したい。

同君とは高校時代からの友人だ。白陵高校という。ちょっと変わった学校で、2年のときに原書講読という授業があった。読む作品は年ごとに変わり、我々の年はイギリスの作家Thomas HardyのThe Woodlanders (1887)という小説で、当時は翻訳が出ていなかった。

それは分厚い長編小説で、ぼくらはほとんど理解できなかったし、1年かかって読み終えたページもわずかだった。しかし、「原書」なるものに触れて、英文学という未知の世界があること、若かった我々の開拓を待っている原野のような世界があることを知り、そこにいささかの興奮を感じることはできたのだった。

北岡武司君は岡山大学で哲学の教授を勤めて、すでに定年で退官した。

誰にとっても人生は曲がりくねっている。同君も相等に曲がりくねった人生を歩んだようだが、哲学と文学はずっと一筋に取り組んできた。数冊の詩集も出した。そのことが『お爺ちゃんと大砲』の文章によく表れている。いわゆる欧米文学の翻訳文体がもつ魅惑が生きている。

ところで、『お爺ちゃんと大砲』はオーストリア・ハンガリー軍で大砲設計者だった陸軍大尉(のち大佐)の物語をその孫がつづる。

第一次世界大戦時のことである。あの戦争は、だれもが1年ほどで決着がつくと思ったらしい。しかし、史上初の国家総力戦になってしまい、大量殺戮の近代兵器を用いて4年間も続いて、ヨーロッパの多くの都市に未曾有の戦禍をもたらした。

その悲惨な戦場はレマルクの『西部戦線異状なし』で知られるが、戦闘がないとき(それがほとんど)の兵士の日常はのんびりしたもので、「異状なし」だった。一般の市民も同様だ。戦闘や戦争末期の想像を絶する悲惨な状況は、それが自分のところに来るまで、不安として感じても、現実の恐怖にはならない。それが戦争の一面なのだろう。

オーストリア・ハンガリー帝国の砲兵大尉にして大砲設計技師のことも「この大戦の出来事に沿って、メルヒェンのような物語が大戦まえのプラハで、次いで開戦後、戦線の一つであったアルプス山岳地帯で展開される」(「解説」より)のである。


お爺ちゃんと大砲カバー
四六判286ページ 定価2500円+税
春風社

チェコの作家が描いた大戦をまたぐ大人のメルヘン!
死んだはずのお婆ちゃんから手紙が届いた。
大砲の技師だったお爺ちゃんは、僕に日記を残して旅立った。
そこで明かされるお婆ちゃんとの関係とは?
大戦前後のチェコを舞台に、戦争や運命に翻弄される人々を描く。
ドイツで1981年に発表された小説、初の邦訳。

☞Amazon

本文冒頭
お爺ちゃん大砲p4 お爺ちゃん大砲p6 画像はクリックで拡大します。

解説と奥付
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(大角修)

「文学部」消滅の危機、貧すれば鈍するか 

文科省が国立大学の「文学部」を大幅に縮小する方針を出した。限りある財政・人材資源を工学・農学・医学のような役に立つ分野にシフトするということである。

貧すれば鈍するという言葉通りの視野狭窄。

奈良・京都の寺社など、それがなかったら奈良も京都も存在しないほどの巨大な力は、いわゆる実学的視点では役に立たないものから生み出された。今は国をあげて「おもてなし」の観光立国などと言っているが、もしもお寺も神社も祭りもなかったら、まったく魅力の乏しい国になるし、そもそも人間が暮らす場所ではなくなってしまう。

そうした「文」の力がなかったら、おそらく科学技術も成り立つまい。なのに、文学部は縮小一途だ。

これには文系の研究者に「文」の気概がないことも影響していよう。「素養を養う幅広い教育が失われる」といった懸念は表明されているけれど、「文学部のない大学なんか、大学とは言えない」というくらい強く言わないところが情けない。

もうだいぶ前から、文学部ではなく「人間科学部」というような、意味不明の学部名が増えてきた。「人間」という言葉で人気を惹こうという魂胆が見え見えだが、そもそも「人間」という言葉に私たち日本人が何を込めてきたのか、それが追究されているとは思われない。

私たち日本人は「人間」に「善」を見る。千年の歴史をへて培われた感覚だ。「新・日本の歴史」シリーズの巻を追ってブログに書いていくつもりだが、日本人の人間観に大きく影響したことを2つの時代からピックアップする。

仏心と本覚法門(第3巻『武士と新仏教の誕生』より)
歴史3巻p08-09  歴史3巻p10-11 クリックで拡大します。

「人」になる道(第5巻『江戸時代と日本人の心』より)
歴史5巻p64-65  歴史5巻p66-67


☞「新・日本の歴史」シリーズについて
全巻目次
☞著作リスト
(大角修)

石鍋真澄「フィレンツェの世紀」刊行 

今日、事務所の郵便受けにどっしりと重みのある封筒が平凡社から届きました。

封をあけると、やはり石鍋真澄著『フィレンツェの世紀 ルネサンス美術とパトロンの物語』でした。

石鍋真澄さんは大学時代、『山猫』という同人誌を出していた仲間です。彼は美学でイタリア美術を専攻。これまで多くの著書・編書がありますが、その集大成ともいうべき、しかし、テーマを明確にしぼっての意欲作が本書です。
 イタリアのルネサンスの中心地フィレンツェ、そこのメディチ家といったことは、私には昔、世界史の教科書で習ったレベルを出ていないけれど、別記の目次に見られるように、美術の視点から社会史に展開されているので興味深い。いったい「共和制」なるものも不思議なことではないですか?

フィレンツェの世紀_convert_20130415211400
平凡社 A5版520ページ 5400円+税
AMAZON


以下「プロローグ」より

 美術史は通常、美術家と美術作品の様式や図像を中心に語られる。これに対して、本書はパトロンと社会をキーワードとする美術史の試みである。
(中略)
ルネサンスの美術様式や芸術概念の形成は、新しいタイプのパトロンの誕生とと並行するものであった。したがって、パトロンについて知ることなしに、15世紀フィレンツェ美術を真に理解することはできない。


以下「目次」
プロローグ
第Ⅰ部 都市国家
第1章 四人のフィレンツェ市民──イントロダクション
第2章 文明のゆりかご──都市
第3章 政治の仕組み──共和国
第4章 税と結婚──エリート市民

第Ⅱ部 メディチ以前 1400−1434年
第5章 事実と神話──1401年のコンクール
第6章 ブルネッレスキの栄光──クーポラの建設
第7章 フィレンツェの光と影──イカノチェンティ捨子養育院
第8章 ギルドの殿堂──オルサンミケーレの彫刻
第9章 コジモのライヴァル──パッラ・ストロッツィ
第10章 幸運の人──フェリーチェ・プランカッチ

第Ⅲ部 コジモ・デ・メディチの時代 1434-1469年
第11章 パトロンたちの代弁者──ジョヴァンニ・ルチェッライ
第12章 最も富裕なイタリア人──コジモ・デ・メディチ1
第13章 第一の市民 ──コジモ・デ・メディチ2
第14章 美術のパトロン──コジモ・デ・メディチ3
第15章 変化の時代──ピエロ・デ・メディチ
第16章 偶然の贈り物──ポルトガル枢機卿礼拝堂

第Ⅳ部 ロレンツォ・デ・メディチの時代 1469-1500年
第17章 工房のボス──ロレンツォ・デ・メディチ1
第18章 コレクター魂──ロレンツォ・デ・メディチ2
第19章 建築への情熱──ロレンツォ・デ・メディチ3
第20章 メディチの友──フランチェスコ・サセッティ
第21章 結婚と美術──ジョヴァンニ・トルナプオーニと息子ロレンツォ
第22章 アウトサイダーの意地──フィリッポ・ストロッツィ
エピローグ

(大角修)

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