スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

宮沢賢治の生家は真宗か浄土真宗か 

『賢治研究』
宮沢賢治は法華経を信奉したが、作品中では法華経が注意深く秘匿されている。生前に発表された作品では『春と修羅』中の「オホーツク挽歌」に「(ナモサダルマプフンダリカサスートラ)」とあるのが直接的な表現で法華経の名が出る唯一の例だ。
真宗か浄土真宗か 真宗だと真言宗と混同されかねない。そこで真宗・浄土真宗と併記している。

スポンサーサイト

王泰平『「日中国交回復」日記』全訳 

寄稿した雑誌のご案内 

著書につづき、寄稿した雑誌・ムックをご紹介します。とりあえずリストで、内容は追ってアップします。

仏像3
『仏像探訪』第3号「平家物語ゆかりの名刹を訪ねる」2011年12月
エイ出版社 A4変型判 144ページ ¥1,155 (税込)

大法輪
『大法輪』特集「宮沢賢治と仏教」2012年4月号
寄稿「仏の国イーハトーブ─賢治の諸作品に見られる仏教思想-

カルタ
『CARTA』 特集「仏像学」2012年盛夏号 2012年8月号
学研マーケティング

仏像4
『仏像探訪』第4号 奈良 至宝の仏像めぐり 2012年9月
エイ出版社 A4変型判 144ページ ¥1,155(税込)

お寺の本
『お寺の基本』2012年9月
エイ出版社  A5判 128ページ  ¥580 (税込)

一個人・戦国
『一個人』特集「戦国武将の謎100」 2012年 9月号
KKベストセラーズ 680円

一個人・源氏_convert_20121010094859

『一個人』特集「源氏物語」 2012年 11月号
KKベストセラーズ 680円

(大角修)

空海と真言密教の仏像 

仏像探訪 第2号『空海と真言密教の仏像』 (エイムック) に寄稿しました。といっても、6月刊。なかなか好評のようです。今回は東京国立博物館で9月25日まで開催していた空海展にあわせての企画です。
寄稿の一部を紹介します。


醍醐の花見をきっかけに
五重塔修造・諸堂再建


 戦国時代は織田信長・豊臣秀吉の天下統一によって終わる。その時期を安土桃山時代というのは信長の安土城、秀吉の伏見桃山城の名による。
 秀吉が伏見城を造ったのは1592(文禄元)年。ときに56歳の秀吉は隠居所として伏見城を造ったのだが、それは挫折におわる朝鮮出兵開始の年であった。さらに翌年、側室の淀殿が秀頼を出産すると、秀吉は豊臣の天下を秀頼に譲るためには楽隠居というわけにはいかなくなった。
 秀頼は母の淀殿とともに大坂城で育つ。秀吉は要衝の地の伏見城を堅固な城塞に造り替えて諸大名をおさえ、秀頼の成長を待った。
 ところが、1595(文禄5)年閏7月13日未明、畿内で大地震があり、伏見城は倒壊。「男女御番衆(城詰めの人)多数死、その数いまだ知らず」という。
 これは時の醍醐寺座主の義演が日記に書いていることだ。『義演准后日記』という貴重な史料で、国の重要文化財である。
 醍醐寺は被害が少なかったが、応仁の乱で焼かれて以来、堂宇の多くはいまだ再建されず、境内は荒れていた。大地震でも倒壊をまぬかれた五重塔も傷みは激しかった。
 いっぽう秀吉は京都の聚楽第を解体して資材を伏見に運び、城の再建にかかった。その工事が完成に近づいた1597(慶長3)3月、秀吉は徳川家康を誘って醍醐寺を訪れた。『義演准后日記』によれば突然のことだったらしい。
 その秀吉の目に、歳月をへて傷み、いままた大地震に揺さぶられて傾いた五重塔が映った。また、醍醐寺は古くから桜の名所で鎌倉・室町時代には桜会とよばれる法会が舞楽・雅楽を奉納してにぎにぎしく営まれていたのだが、その桜の木々も乏しくなっていた。
 秀吉はこの五重塔をはじめ、三宝院など諸堂の再建を義演に約した。また、下醍醐から上醍醐にいたる道に桜を移植し、盛大に花見を営むことにした。翌春3月15日、道わきに大名らが茶屋などをしつらえ、大坂城から淀殿など一族を招いて華々しく花見がおこなわれた。世にいう醍醐の花見である。
 秀吉が死んだのは、その花見のわずか五月後の8月のことだった。以後、醍醐寺再建は秀吉の遺命として秀頼に託され、如意輪堂・五大堂などが再建された。
 ところで、秀吉が造った伏見城は徳川家康の畿内での居城となったが、洛内に二条城が造られたため、1619(元和5)年に廃城となった。その場所は、現在の伏見城からは少し離れた場所で、明治天皇の伏見桃山陵がある小山である。家康の伏見城の跡には数十万本という桃が植えられた。ために、桃山と呼ばれるようになったのである。


空海01

仏像探訪3pdf

仏像探訪4

仏像探訪5

学研ムック『ブッダを知りたい』発刊 

 手塚治虫原作のアニメ『ブッダ』の封切りを機にブッダ本が相次いで刊行されている。学研ムック『ブッダを知りたい』(﨟富本宏監修)も、この機に発刊された。以下は、私の寄稿部分の一部です。
 なお、拙著『ブッダと神々の物語』(仮題)を刊行予定でしたが、すこし執筆が遅れています。お待ちください。


学研ムック・ブッダ_convert_20110601174847
2011年6月9日刊 650円

学研ムック・チベット_convert_20110601175029

 砂曼荼羅はチベット仏教の大きな法会のときに造られる。鮮やかな赤・緑・青などに染めた石英の砂で造られる曼荼羅だ。細かく幾何学的に色分したところに諸仏諸尊(仏や菩薩、神々など)を象徴する文字や模様が砂で描かれる。
 曼荼羅の起源のひとつには、インドのヒンドゥー教の儀式で神々を招き寄せる土壇をマンダラとよんだことがある。仏教で多くの諸仏諸尊(仏や菩薩、神々など)を描きこんだ図画を曼荼羅というのも諸仏諸尊の集会を表わすものだからだ。
 諸仏諸尊の集会は、宇宙の万物の成り立ちを示すものでもある。太陽の輝きや季節のめぐり、作物の稔りなど、全ては仏や神々の働きによって成り立っている。そのことが修行者たちの瞑想と種々の行法を通して探究され、諸仏の神秘が経典に記して伝えられた。なかでもインド仏教の後期に秘密仏教すなわち密教が発展するなかで、諸仏の秘密が探られた。そして、最初の本格的な密教経典である『大日経』が七~八世紀頃に編まれた。
 『大日経』の世界を図示した曼荼羅は胎蔵界とよばれるが、くわしくは大悲胎蔵生曼荼羅といい、宇宙根源の仏である大日如来の大いなる慈悲の胎内から生じた世界であるという。ついで大日如来の九つの集会の場面が説かれた『金剛頂経』が編まれ、それによって金剛界曼荼羅が描かれた。
 胎蔵界・金剛界の両界曼荼羅は空海が唐からもたらし、日本では曼荼羅の代表的なものになっているが、インドでは、それ以降に密教が非常に発達し、タントラとよばれる密教経典が多く編まれた。『秘密集会タントラ』『カーラチャクラ(時輪)タントラ』などだ。
 それらのタントラはチベットに伝えられ、さらにラマ(チベット仏教の聖僧)たちの瞑想によって数多く曼荼羅が造られた。寺院そのものも立体の曼荼羅であり、内部におびただしい仏像が祀られている。
 しかし、どんなに壮麗な寺院でも、どんなに精緻に描かれた曼荼羅図でも、諸仏の神秘の究極のところは示すことはできない。むしろ、平面的な幾何学紋様の砂曼荼羅のほうが、諸仏の宇宙をよく示している。
 砂曼荼羅の全体を包む円形は仏塔を示し、その内側の四方形は万物を支配する仏の王城を象徴している。その上の虚空に、極彩色の仏塔と仏の宮殿がそびえているのだ。そして法会が終わると砂曼荼羅は跡形もなく崩されてしまうが、それによって諸仏は姿形はなく虚空に満ちているという本来の意味が示されるのである。


学研ムック七仏_convert_20110601174951


 さまざまな言い伝え

 シャーキャの王子ゴータマ・シッダールタがブッダ、すなわち釈迦牟尼仏になったことには、どんな因果律が働いているのか。それは今生の修行だけで成就されたことではあるまい。
 釈迦の滅後、修行者たちはそのことに思索を深めて過去・現在・未来の永劫の時にわたるブッダの物語を語り伝え、経典にも記された。
 たとえば、釈迦の前世の物語を集めた『ジャータカ(本生経)』に、遠い過去のディーパンカラ(燃燈仏)という仏の世にスメーダというバラモンの修行者がいたという。燃燈仏が弟子たちと遊行したとき、道がぬかるんでいるところがあった。スメーダは泥の中に身を伏せて、仏の一行を渡そうとした。そのとき燃燈仏は、スメーダは未来にゴータマ・ブッダになるであろうと告げたということである。
 また『法華経』の「化城喩品(幻の城の章)」では釈迦如来の前世がこのように語られている。
 無量無辺百千万億の劫のかなたの過去の世に大通智勝仏の世があった。この仏は、出家する以前に王だったとき、十六人の王子がいた。十六王子は仏になった父から教えを受けて修行し、東西南北その他の十六方の世界で、それぞれ仏になった。釈迦は十六王子の末子であった。そして、西方で仏になったのが阿弥陀仏である。
 阿弥陀仏は、また、『無量寿経』には遠い過去の世自在王仏の世に国王であったが、王宮を捨てて法蔵という名の修行者になり、自身が仏になって極楽という仏の国を造ったのだという。
 そのように仏は数多く過去も現在も、あらゆる方角に無数に存在すると説かれる。いっぽう、釈迦牟尼仏の滅後、五十六億七千万年後に弥勒菩薩が地に下って仏になるまでは世に仏がいない無仏時代で、地蔵菩薩が仏に代わって人々を救うともいう。
 伝承は一定ではない。時空のかなたに思索の感覚を伸ばして語り出されたことだから、いろいろなことが伝えられている。そのなかで過去七仏の伝承は、とりわけ壮大な物語である。

 過去七仏

 万物は流転していく。宇宙そのものも、四劫とよばれる四つの時期をへて流転する。万物が生成される成劫、それらが安定して維持される住劫、このとき人の寿命は何万年にも延びる。しかし、次の壊劫には万物が衰退し、人の寿命も縮んでいく。そして生滅の空劫が訪れて、次に生成の力が発動されるまでは何も存在しない。
 諸仏は、この流転の宇宙において出現する。人の寿命が数万年に及んだ過去荘厳劫という遙かな時期には千仏が現れた。その最後の三仏を毘婆尸仏・尸棄仏・毘舎浮仏という。
 次に現在賢劫にも千仏が現れる。その最初が倶留孫仏・倶那含牟尼仏・迦葉仏・ 釈迦牟尼仏の四仏であった。
 さらに未来星宿劫にも千仏が現れるというのだが、そのなかで倶留孫仏から釈迦牟尼仏にいたる諸仏を過去七仏とよび、ゴータマ・ブッダが世に現れた理由として伝えられている。インドの仏教遺跡にも七仏像があるので古くから語られてきた伝承である。

(スジャーターの乳粥の鉢

 ゴータマ・シッダールタの伝記のなかにも過去七仏の伝承を折り込んだ話がある。シッダールタが六年間の苦行の後、川辺でスジャーターという娘から乳粥の供養を受けたときのことだ。乳粥は黄金の鉢に盛って捧げられたのだが、シッダールタは乳粥を四十九個の団子にして持っていくことにし、鉢は川に浮かべた。
 すると不思議なことに鉢は流れに逆らって川を上り、竜王の住む淵に行き着いた。そこには過去に仏になった者が同様に流した鉢があり、シッダールタの鉢はそれにこつんとぶつかった。先に流れついていた鉢は六つとも、現在賢劫の仏の三つともいう。いずれにせよ、このとき過去の諸仏の法がシッダールタに受け継がれたのである。
(中略)
 いろいろな教えのうち、過去の諸仏が等しく伝えてきたという戒めの言葉が次の「七仏通誡偈」だ。
 諸悪莫作(いろいろな悪をなすことなく)
 衆善奉行(多くの善を行なって)
 自浄其意(自ら心を清めなさい)
 是諸仏教(これが諸仏の教えです)  この言葉は日本だけでなく、東南アジアでとくに重視され、世界の仏教界で大切にされている教えである

日経おとなのOFF・特集「ニッポンの仏教」発刊 

今日、『日経おとなのOFF』6月号が送られてきました。3月11日の東日本大震災のあと、雑誌として何ができるかを真剣に考えて、急遽、仏教特集とした旨の挨拶文が同封されていました。その編集にあたって取材を受けていたものです。
連休明けの9日には書店に並ぶ由、目にとまりましたら手にとって御覧ください。

日経_convert_20110506232750

日経2_convert_20110506232850



『仏像探訪』戦国武将が愛した伝説の仏像たち 

エイ出版のムック『仏像探訪 戦国武将が愛した伝説の仏像たち』が刊行されました。大型版ムックのビジュアル本です。
この本は友人の山本道生さんが編集しました。
以下、私の担当部分の記事の抜粋です。

(「仏像は戦場のお守り」より)
戦(いくさ)に出ることは、文字通り命がけだ。武士は、それを恐れてはならなかった。しかし、外面は勇猛にとりつくろっても、内心の震えをどうしようもなかったのではないか。
 そもそも戦場(いくさば)には、どんな怨霊が潜んでいるか、知れたものではない。悪霊どもを退けるには仏神の加護に頼らねばならなかった。あわせて、槍や矢が当たらないことを祈ったに違いない。
 昭和の太平洋戦争でも、出征兵士に千人針の腹巻を持たせたのは記憶に新しいところだ。

(「日本最初の戦勝祈願の寺」より)
聖徳太子は木で四天王の像を造り、髪にさして物部氏討伐の戦いに臨んだ。そして戦に勝利し、四天王寺を建立した。世の平安を祈る鎮護国家の最初の官寺である。


仏像3

エイ出版
Amazonへ(大角修)

八幡大神 鎮護国家の聖地と守護神の謎 

田中恆清監集
『八幡大神 鎮護国家の聖地と守護神の謎

2011年1月刊/A5判・上製・176頁・2200円+税 戎光祥出版

八幡大神表紙

Amazon

分担執筆しました。以下は私の担当部分(八幡神の歴史3「大菩薩から国家神へ」)の一部です。


八幡大菩薩の顕現
 飛鳥・奈良時代は天皇を頂点とする律令国家の建設がおこなわれた時代だが、古代の有力氏族は藤原氏をはじめとする貴族として権勢を維持し、それぞれに氏神を祀って結束した。天皇を頂点とする律令体制では皇祖を祀る伊勢神宮が神祇の頂点に位置するのだが、それを強力に補完したのが毘盧遮那仏と八幡大神に象徴される神仏であった。

石清水八幡宮の成立と鎮守八幡神
 古代の王制は平安中期に藤原摂関家が権勢をにぎった頃に最高潮に達した。その端緒になったのは天安2年(858)に清和天皇が九歳で即位し、太政大臣の外祖父、藤原良房が権力をにぎったことだった。翌年、良房は南都大安寺の僧、行教を宇佐に送って勤行させ、幼帝の安泰を祈らせた。
 そして行教が帰京したとき、再度お告げがあって石清水八幡宮が清和天皇の勅命によって造られた。
 その地は淀川の水運の要衝であるとともに、都の裏鬼門(南西)にあたる。北東の鬼門の比叡山延暦寺とともに王城鎮護の寺社となった。石清水八幡は伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟となり、その末社が鎮守の神として各地に勧請されていく。

著書『日本仏教史入門 基礎史料』『日本ひらがな仏教史』『平城京全史解読』へ(大角修)

宮沢賢治・文語詩を読む 

宮沢賢治・文語詩を読む

宮沢賢治研究会『賢治研究』112号に「文語詩を読む」を寄稿しました。以下はそのダイジェストです。

〔ひかりものすとうなゐごが〕
 
 ひかりものすとうなゐごが、 ひそにすがりてゆびさせる、
 そは高甲の水車場の、    こなにまぶれしそのあるじ、
 にはかに咳し身を折りて、  水こぼこぼとながれたる、
 よるの胡桃の樹をはなれ、  肩つゝましくすぼめつゝ、
 古りたる沼をさながらの、  西の微光にあゆみ去るなり。

 闇の中にぼうっと白いものが見える。「あっ、何か光っている」と、幼い子がそっとすがりついて指さした。「ひかりもの」は人魂・鬼火などの意味もあるので、幼い子は恐がり、水車場の主の陰に隠れるようにして指さしたのだろう。
 その水車場は付近の人に「高甲」と呼ばれている。大きな胡桃の樹におおわれた古い水車場だ。その主も精米・製粉を長く生業としている人であろう。彼が粉にまみれていることに、その生業が実感的に表現されている。
 その主は急に咳こんで身を折る。胸を病んでいるのであろうか。あるいは一日の精米・製粉作業でひどく咳こむのだろう。
 彼は水車小屋を黒々とおおっている「よるの胡桃の樹」の下から、肩を「つゝましくすぼめつゝ」、古い沼のような光を放つ残光のほうへ歩み去っていった。
 「肩つゝましくすぼめつゝ」が彼のつましい暮らしを思わせる。水車場の主といっても、それはごく小規模なもの。その姿を見て子どもが「ひかりものす」と恐がるほど、付近の人にも意識されることなく、ひっそりと暮らしている。西の微光のほうにある住まいも、つましいものに違いない。「古りたる沼をさながらの」という、にぶい西の微光の方に彼は歩みゆき、夜のとばりが静かに下ろされる。


著書『イーハトーブ悪人列伝』『「宮沢賢治」の誕生』へ(大角修)

宮沢賢治──人間肯定のユーモア 

『イーハトーブ悪人列伝』の発刊にともない、勉誠出版のメルマガに「宮沢賢治──人間肯定のユーモア」を寄稿しました。

日本人の宗教とは何か 

日本人の宗教とは何か
  ―その歴史と未来への展望

四六判上製・定価2730円・2008年・太陽出版
山折哲雄監修
日本の宗教史です。古代を鎌田東二氏、中世は私、近世以後を島田裕巳氏が担当しました。


Amazonへ

般若心経帳 

般若心経帳
えんぴつと筆ペンでなぞり、脳と心を活性化させる

永岡書店 (B5変 )  2006年10月 1029円
1日15分30日間ドリル

般若心経

Amazonへ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。