良寛の歌集『ふるさと』を読む32 寒夜の物乞いを哀れむ 

 歌集『布留散東ふるさと』第53首には次の詞書がある。

神無月んなづきのころ、旅人の簑みの一つ着たるが門かどに立ちて物乞ひければ古着ぬぎて取らす さてその夜 嵐のいと寒く吹きたりければ

 たが里に旅寝しつらむぬばたまの
   夜半よはの嵐のうたて寒きに(第53首

 この歌については、ふたたび『ひとりで生きる道』から再録する。


 良寛は夢に由之が現れるほど、由之のことを気にかけていた。(中略)
 さらに第五十三首では、旅の物乞いに思いを寄せる。秋が深まる神無月(十月)のころ、蓑をひとつだけ着た旅人が門口に立って物乞いするので、自分が着ていた古着をぬいで与えた。そんな古着で寒さを防げるはずがない。その夜、嵐がたいへん寒々しく吹いたので、旅の物乞いが気にかかり、「たが里に旅寝しつらむぬばたまの 夜半の嵐のうたて寒きに」と詠んだ。
 異郷で旅寝をする人には夜半の嵐はいっそう寒いであろうという。由之は所払いになったとはいえ、助けてくれる縁戚や俳諧の知己が各地にいた。物乞いをして旅路に眠るこの人は、おそらく、たったひとりきりであろう。
 この後に良寛は第六首の岩室の松の木を再度とりあげる。そして、あの取る人もない「鉢の子」の歌で『布留散東』を結ぶ。

岩室の野中に立てる一つ松の木けふ見れば 時雨の雨に濡れつつ立てり 57
鉢の子をわが忘るれども取る人はなし 取る人はなし鉢の子あはれ 61

 人はそれぞれ、ひとりで生きるほかにない。しかし、それぞれがひとりであるところから他の人を愛しく思える共感が生まれる。
 良寛はひとりでいて、そして悲しく人びとを思うのだった。



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良寛の歌集『ふるさと』を読む31 弟・由之のゆくえ 

 歌集『布留散東ふるさと』第52首は、由之の消息がわからないので庵に居ても立っても為すすべがないと弟の行方を案じている。
 ということは、だいたいは連絡がとれていたのに、ぷつんと途絶えたということだろう。所払いになってからの由之の足取りは以下のようであった。
 拙著『ひとりで生きる道』から再録する。


 奉行所の判決が下りたのは文化七年(一八一〇)十一月、由之四十九歳のときだった。この六カ月前に由之の妻やすが没していた。幸いというべきかどうか。やすは出雲崎橘屋の廃絶を知らずに他界したのである。
 由之はひとり、他郷に出る。越後に雪が来るころのことだった。はじめは石地に隠れ住んだ。出雲崎よりひとつ南の北国街道の宿場である。良寛の親友、原田有則が石地に由之を見舞い、歌二首を贈って慰めた。

ありそみの あまの濡衣ほしもあへず うきめみるめを つまぞひろはん
ありそみの 浪の下にも春や来ぬ しづく玉藻に花の香ぞする

 荒磯海に濡れた衣を干すこともできず、憂き目の海藻(海松)を君は拾う。けれど、荒磯の海の波濤の下にも春は来る。みずみずしく美しい藻に花の香りがする゜
 由之の罪は濡れ衣だ。いつか春も来るというわけだが、由之は次の返歌を詠んだ。

波たてむ風も何かとますらをと おもへる我はくずをれにける

 波を立てる風は増し、自分は丈夫だと思っても心が崩れ折れてしまうという失意の歌だ。けれど、掛詞をふんだんに用いた洒落っ気の強い歌づくりには、どんな悲劇でも笑い飛ばしてしまおうとする強さがある。
 良寛も手紙を送って弟を慰めた。「由之老」「二十二日 良寛」という宛名や日付のほかには歌三首だけの短い手紙である。第一章「海の良寛」などで述べた「たらちね」三首だ。どこにいても母が生まれた佐渡島は見えるという。それだけで兄弟の心は通じたのだろう。

たらちねの母が形見と朝夕に 佐渡の島べをうち見つるかも 823
いにしへに変はらぬものは荒磯海と 向かひに見ゆる佐渡の島なり 824
草の庵に足さしのべてを山田の かはづの声を聞かくしよしも 825

 以後、由之は縁戚や知己を頼って文人として暮らし、文化十年には文章作法の書『くらげの骨』を著した。ありもしないクラゲの骨を書名とするあたりが由之の洒落だ。名門橘屋の重荷から解放され、ほっとした感さえある。
 渡辺秀英『良寛の弟 山本由之』によれば、文化十四年六月に由之は越後を発って福井・三国(福井県北部)を根拠に各地を旅し、翌年春には京都・奈良・吉野・伊勢・大津などを巡った。その後、三年ほどは主として三国の「渓柳寺にいたと思うが、詳しいことは不明である。分かるのはこれ位で、『山つと』の始まる文政十三年までの消息は雲をつかむようである」という。
『山つと』は由之の歌日誌で、良寛七十三歳の文政十三年(一八三〇)三月から八月までのことが記されている。それまでの由之の消息はわからないことが多いけれど、『良寛の弟 山本由之』には、おりおりに詠んだ多くの歌が掲載されている。その旅中の一首に「久方の桂の水は流れても昔の影は見るよしはなし」とある。
 この歌には「桂に詣づ。昔の御事思出れば恋しう、悲しきこと限りなし。河に臨みてかくなん」という詞書がある。いうまでもなく、父の以南が身を投げた桂川のほとりに立って、それを悲しく思いだしたのである。「昔の影は見るよしはなし」には、今や見る影も零落した橘屋への思いも含まれているだろう。文化十五年三月十二日の歌である。
 しかし、六日後の三月十八日には「道のべの菫たむぽぽ手に摘みて 行きもえやらず春の長日を」と詠む。道ばたのスミレやタンポポを摘むのが楽しくて、どこにも行けない。良寛の「鉢の子にすみれたむぽぽこき混ぜて」(118)とよく似た歌である。
 由之はその後、佐渡に渡って母方の親戚に身を寄せたりした。蝦夷地(北海道)に渡ったこともあるらしい。良寛に「由之が蝦夷へ行しと聞て」といって詠んだ歌がある。

夷嶋に君渡りぬと みな人の 言ふはまことか えぞが嶋べに 1247

 当時、蝦夷地はニシンや昆布の大産地だった。中国の織物などの輸入の経由地でもある。それらの物産は北前船で大坂方面に運ばれた。出雲崎は北前船の寄港地だったから、橘屋の当主だった由之には蝦夷地に知人がいたのだろう。しかし、蝦夷地に行ったのは六十二、三歳のときらしい。その高齢で蝦夷地に行ったので、みんなが驚いたのだろう。「みな人の 言ふはまことか」という強い口調に、由之の身を案じる良寛の気持ちが察せられる。
 しかし、やがて由之は越後に戻り、日記『山つと』を書くころには与板に落ちついていた。
 与板は父の生地である。その地で由之は俳諧の宗匠として平穏な晩年を送った。そこに至るまでの長い道のりを由之と良寛はともに歩んだ。住まいは離れていても、おりおりに歌を書き添えて手紙をやりとりしたのである。
 ふつうなら、由之は良寛を恨んでもよいはずなのに、この兄弟は不思議にも仲がよい。
 良寛は由之に橘屋の跡継ぎを押しつけるような形で家を出た。名主をついだ由之は無理に無理を重ねて虚栄を張り、さんざんに苦労した。できることなら、自分も兄のように気楽に放浪して歩きたいと思うこともあったにちがいない。そして由之は所払いという罪をかぶって異郷に出ていく。
 このとき良寛は、故郷とは何であるのかを改めて問う。自筆の詩集『草堂集貫華』を良寛が編んだのは由之が所払いになった翌年の文化八年ころだった。つづけて同九年ころ、自筆歌集『布留散東』を編む。この詩集と歌集はこれまでたびたび引用してきたが、成立は橘屋の廃亡後のことだった。良寛の帰郷から十五、六年後のことである。

『草堂集貫華』という表題は良寛自身がつけたものだ。「草堂集」は文字どおり草庵暮らしの僧の詩集という意味だろう。「貫華」は花をたばねる糸のことで、仏教の「経」にあたる。「経」という漢字は織物の縦糸を意味するが、古代インドの原語「スートラ」は仏や神々にささげる花をたばねる糸をさすという。釈迦の教えを伝える経典は、すなわち「言葉の花束」である。
 おそらく良寛は、それにならって詩集を「言葉の花束」として編み、寺泊の外山家に嫁いでいた妹、むらに贈った。さらに『草堂集貫華』の略本を編んで、父の生家である与板の新木家に贈ったのである。それらは失意の一族に贈った「言葉の花束」であった。


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良寛の歌集『ふるさと』を読む30 ゆくえ知れぬ由之へ 

 歌集『布留散東ふるさと』第52首は、ふたたび、しかし突然の弟の由之を思う歌である。
 詞書に「詠みて由之につかはす」という。

草の庵いほに立ちても居ても すべもなき
  このごろ君が見えぬと思へば(第52首)

 言葉は平易だが、いろいろなことを考えさせる歌である。(以下次回)

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良寛紀行11 出雲崎・尼瀬3/芭蕉の足跡 

 元禄2年(1689)7月4日、『奥のほそみち』の芭蕉が出雲崎に泊まり、「荒海や佐渡によこたふ天の河」の句を詠んだ。良寛が生まれる70年ほど前のことだ。

 いま、出雲崎には『奥のほそみち』にちなんで北国街道脇に芭蕉園という小さな公園がある。そこは敦賀屋の跡だという。

 敦賀屋は橘屋と対立していた尼瀬の京屋の縁戚だった。連合して橘屋を追い落としたのである。いっぽう、所払いになった由之は、やがて与板に住み、俳句の宗匠として生涯を閉じるのだが、いわば敵の屋敷跡に芭蕉園が造られたことは運命の皮肉を感じさせる。

 なお、由之は俳号である。良寛の父を以南いなんというのも俳号だ。橘屋山本家は北陸で俳諧の一派をなした一族であった。


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旅姿の芭蕉像


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良寛紀行10 出雲崎・尼瀬3/北国街道 

出雲崎の古い町並みを昔の北国街道が通っている。現在の国道は海沿いに造られて、この通りは残った。

出雲崎

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良寛の歌集『ふるさと』を読む29 異郷で孤独に死んだ友へ 

 歌集『布留散東ふるさと』第50首には長い詞書がある。原文を添えて現代語訳で紹介する。

 幼い時にたいへん仲良く親しい人があった。かれは田舎に住み飽いて東あづまの方かた(江戸)に行ってしまった。それ以来、こちらからも、かれのほうからも長く便りがなかったのだが、このたび亡くなったと聞いた。
(原文)幼き時かいと睦まじく契りたる人ありけり 田舎を住みわびて東の方へ往いにけり こなたよりも彼方よりも 久しく音もせでありしが この度みまかりぬと聞きて

かくあらむと かねて知りせば たまぼこの
  道行き人びとに言づてましを(第50首)
    このようになると知っていたなら、
    そちらに行く人に言づてして安否を尋ねてやったのに。


 子どものころの友は、江戸に出たきりの彼は今、どうしているだろうか。ふと、そんな思いがすることがあっても、とりたてて便りをすることもないまま歳月を過ごした。そこへ、「このあいだ死んだらしい」ということである。
 もし安否を尋ねていれば、せめて慰めることができただろうに。
 突然に聞こえてきた友の死。次の歌もそのことを詠んでいる。

この暮れの うら悲しきに草枕
  旅のいほりに果てし君はや(第51首)

 定本全集は「この暮れの うら悲しきに」を「夕暮れになって、何となく悲しく感じられる時節なのに」と訳している。この解釈はおそらく、良寛に「之則ゆきのりの物故を聞く二首」と題する追悼の漢詩があることを踏まえているのだろう。之則は漢学塾の学友だった富取とみとり之則のことだ。彼は江戸に出たが、志し達せず、裏長屋で死んだという。
 だから、歌集『ふるさと』の第50首・第51首も之則を悼む歌であると考えられる。定本全集が「何となく悲しく感じられる時節」というのは、之則の死が秋の9月6日だったことによるのだろう。

 しかし、歌集『ふるさと』には之則を示す情報が何もない。あまり之則にとらわれず、異郷で客死した友を悼む歌として読んだほうがよい。
 そうすると、「この暮れの うら悲しきに」は「びしょびしょと陰鬱に雪が降りつもる歳の暮れに」と読めるのである。
 その友は誰にも看取られることなく異郷に果てたのだろう。無縁社会の現代では珍しいことではなくなった孤独死だ。

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良寛紀行9 出雲崎・尼瀬1  

出雲崎と尼瀬は、ひとつらなりの細長い町だ。境に木戸が設けられていたそうだが、広義には両町をあわせて出雲崎といった。江戸時代には北国街道の宿場町であり、北回り回船および佐渡へ往来する船の港だった。幕府はこの要衝を天領とし、代官所を置いた。
良寛の生家=橘屋山本家は同地に古くから住み着いた一族で、出雲崎の名主・鎮守の石井神社の神主、宿場の本陣、廻船問屋で佐渡から金を運ぶ御用船を預かる。当地第一の名家であった。しかし、良寛の父の以南いなんの代には家運が傾き、家を嗣いだ弟、由之ゆうしはついに家財没収・所払いとなる。
 直接には尼瀬の廻船問屋、京屋との競争に敗れたというのだが、その事情については江戸時代の旧家の独特な立場を考えねばならない。くわしくは拙著『ひとりで生きる道』に述べたので簡単に言えば、旧家は体面を保つために大きな出費があった。家運衰退の斜陽期に、その負担は重い。由之は町方から借財を重ね、ついに奉行所に訴えられたのだった。


出雲崎
出雲崎は日本海の荒磯にそって細長く町屋がつづく。

出雲崎夕陽
出雲崎の夕陽

出雲崎墓
古い土地ではどこでもそうだが、出雲崎は墓と寺ばかりめだつ。


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良寛の歌集『ふるさと』を読む28 由之をいさめる2 

 さて、歌集『布留散東ふるさと』第49首。

八重やえ葺かば またも閑ひまをや求めもせむ
  御濯川みすすぎがわへ持ちて捨てませ(第49首)

 この歌は詞書に、5月のころ、由之が「わが宿の軒の菖蒲を八重葺かば うき世のさがを けだし避きむかも」という歌を寄こしたので、その返しだという。「わが宿の軒の菖蒲を八重葺かば」とは、魔除けのために菖蒲の葉を軒につける風習をさす。「八重葺かば」というのだから、由之はたくさん菖蒲の葉をつるした。それで憂き世の性を追い払ってしまおうという。

 この憂き世の性は、由之が名主時代に酒色におぼれたことをさすと解釈されているが、そうではあるまい。名門の誉れを守ろうとして結局は敗れてしまった。身から出た錆とはいえ、身に覚えのない誹謗中傷も聞こえたにちがいない。どぶに落ちた犬がたたかれるのも憂き世の性である。菖蒲は勝負に掛けて、戦いの勝利を祈るものでもあるから、由之は悔しい思いのやるかたなく、軒の菖蒲に失地回復の願いをこめたのだろう。

 良寛は「またも閑をや求めもせむ」と答えた。暇ができると、ろくなことをしない。また酒色におぼれると読めるのだが、今さらそんなことはあるまい。また世俗の勢力争いにとらわれるという意味だと私は思う。
 そんな菖蒲(勝負)は御濯川に捨ててしまいなさい。「御濯川」の語には、世俗の名誉や地位というようなことはさっぱり濯ぎ落として身を清めよ、という意味がこめられていよう。

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良寛の歌集『ふるさと』を読む27 由之をいさめる 

 歌集『布留散東ふるさと』第49首には次の詞書がある。

五月さつきのころ 由之ゆうしが方よりおこせる歌「わが宿の軒の菖蒲しょうぶを八重やえかば うき世のさがを けだし避きむかも」返し

 これに定本全集は次の釈をを付けている。

陰暦五月の菖蒲の花が咲くころ、由之が「私の宿の軒の菖蒲を幾重にも差せば、もしかして、この世の邪気を避けられるだろうか」と歌にして寄こしたので、その返しに

「菖蒲の花が咲くころ」とあるが、いわゆる花菖蒲と菖蒲は別種の植物で、五月の節句に用いる菖蒲に花は咲かない。魔除けになるというので、由之(家を嗣いだ弟)は軒下にたくさんぶら下げたのである。由之は家財没収・所払いになっていたが、どこかに住まいしたのだろう。
 もう所払いになるような憂き目には遭いたくない。そんな気持ちのこもる歌だ。
 これに対する返歌は、由之を厳しく諫めるものだった。(以下、次回)

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良寛の歌集『ふるさと』を読む26 山吹に弟・由之を待つ 

 歌集『布留散東ふるさと』第48首は詞書に「ふるさとの人の 山吹の花見に来むと言ひおこせたりけり 盛りに待てども来ず 散りかたになりて」という。
「ふるさとの人」が山吹の花見に来ると言って寄こしたので楽しみに待っていたが、待てど暮らせど来ない。やきもきと待つうちに花の盛りは過ぎてしまい、もう散ってしまうころになってやってきた。そのことを次のように詠んだ。

山吹の華はなの盛りは過ぎにけり
  ふるさと人を待つとせしまに(第48首)

 この場合の「ふるさと」は五合庵のある国上山くがみやま一帯のことではなく、生地の出雲崎に限定されるだろう。地図「良寛の足跡」に見るように、五合庵と出雲崎は遠い。そのうえ、出雲崎は立ち入ることがはばかられる故郷であった(このことについては拙著『ひとりで生きる道』に詳述)
 では、良寛がこれほどに「ふるさとの人」と思うのは誰だろうか。
 定本全集は「弟の由之ゆうしか」と推定している。ここはむしろ、はっきり「弟の由之であろう」と言いきってもよい。というのは、次の第49首には詞書に由之の名を記し、しかも、非常に意味の重い歌に続くからだ。
 それに、歌集『ふるさと』の成り立ち(記事「良寛の帰郷1 父の自殺」参照)からいっても、「ふるさとの人」は由之だと考えられるのである。


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良寛の歌集『ふるさと』を読む25 やらずの雨 

 歌集『布留散東ふるさと』第47首は「庵いほに来て帰る人 見送るとて」である。

山かげの槇の板屋に雨も降り来
  さすたけの君がしばしと立ちどまるべく(第47首)

 定本全集は、次のように訳している。
「山かげの杉皮葺きの粗末な庵に、雨が降ってきてほしい。はるばる江戸から訪ねてこられたあなたが、しばらくの間と言って、止まってくれるように」

 良寛の庵に来た人は江戸の国学者で歌人の大村光枝みつえのことだという。光枝は享和元年(1801)7月に五合庵で一泊したことがあった。この歌の返歌に「忘れめや杉の板屋に一夜見し月久方のちりなき影の静かかりしは」と読んだ。それで第47首の「君」は大村光枝と特定されるということなのだろう。
 しかし、歌集『布留散東』には大村光枝を思わせる記述はない。そのように限定してしまうのは、歌の世界を狭くしてしまうだろう。

 しばし引き留めておきたいのは誰であってもよい。
 良寛は、この歌が気に入っていて、没後に貞心尼が記した歌集『はちすの露』にも収められている。その中では、やらずの雨を願うのは晩年の島崎草庵時代、貞心尼が訪れたときの歌だともいえる。


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良寛紀行8 越後七浦の立石 

良寛の故郷、越後国は弥彦神社の弥彦神いやひこのかみが出雲から来て国引きをして造ったという伝がある。その神が海路をはるばるやってきて上陸したというのが越後七浦は野積海岸の立石だ。

 越後七浦は現在は寺泊の信濃川分水(新信濃川)の河口あたりの北から新潟市の角田浜あたりまでの海岸で断崖が多いところだ。北国街道はこの海岸を避けて、弥彦山の内側を抜ける。

 良寛は寺泊と角田浜をしばしば訪れたが、越後七浦は訪れたかどうか。ただ、そこで採れる海藻は好物だったらしい。次の歌があり、間瀬に歌碑も建てられている。

間瀬の浦の あまの刈る藻のよりよりに
  君も訪ひ来よ我も待ちなむ

立石
野積海岸の立石。右方が弥彦山。

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越後七浦の風景

西生寺

西生寺(さいしょうじ)。奈良時代の行基が開いたという真言宗の古刹。寺名が示すように西方極楽浄土の阿弥陀如来が本尊。弘智法印という即身仏、いわゆるミイラ仏の寺として知られる。
良寛は一時、この寺で暮らしたという。西生寺は弥彦山の海側の中腹にある。もし、この寺にいたことがあるとすれば、野積海岸あたりの村々に托鉢したこともあったかもしれない。


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