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吾妻鏡の中の熊谷直実 

先週、鎌倉の光明寺に行ったのは、同寺で浄土宗神奈川教区の集まりがあり、その講師に招かれたためだった。演題は2つあり、ひとつは今すすめている浄土三部経の現代語訳の原稿について一部。もうひとつは鎌倉幕府の日録『吾妻鏡』の中の熊谷直実だった。
熊谷直実は源氏の武将で、須磨・一ノ谷の合戦のとき、まだ若い敦盛を討ち取った。「青葉の笛」の歌で有名な場面だ。『平家物語』では、息子と同じ年頃の敦盛を討ち取らねばならなかったことを悲しみ、出家したことになっている。法然の弟子になり、蓮生房(れんせいぼう)となる。
 ところが、『吾妻鏡』ではだいぶ事情が異なるのである。それについては次回にまわすとして、今日は平清盛の死について。
『吾妻鏡』に平清盛の遺言が記されている。

四日(1181年閏2月)入道相国薨ず。
(以下意訳)
九条河原の経国の家でのことである。前月25日から病悩していたという。遺言に言う。
三か日以後に葬儀をすべし。遺骨は播磨国山田の法華堂に納め、7日ごとに形のとおり仏事を修せよ。毎日してはならない。
また、京都において追善の法事をしてはならない。子孫はひたすら東国に帰ることを考えてけいかくせよ。

『平家物語』では熱に焼けながら頼朝の首を墓前に架けよと命じたのだが、『吾妻鏡』の伝える遺言は全く異なる。京都で栄達もしたが、滅びることになもなった。子孫は東国に帰れという。

この遺言を守ったのは、皮肉にも源頼朝だった。


光明寺
光明寺公式サイトより
(大角修)

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