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極楽浄土を信じられるか05 

 極楽浄土が信じられた頃には、この世のことはとにもかくにも、である。必ずしもいい人生でなくてもよかった。たとえ、どんな悪人でも迎えてくれると説かれている阿弥陀仏の救いから漏れたとしても、人生は一度きりではない。生死は流転し、いつかは仏に見えることもあろう。
 そして、この世のことはとにもかくにも、来世を大事に思って生きていくというのが一般の常識にもなり、それを「後生大事」と言った。
 何か失敗をしたときに「後生ですから」と謝るのも、「後生大事」であるからだ。「ここで私を許さないと、あなたの後生はひどいことになりますよ」と相手を脅しているのである。
 そんな言葉が死語に近くなった今は、極楽浄土を信じることも難しい。
 看取りの文化も、伝統の葬儀や習俗に込められていた死の文化も薄くなり、浄土は消滅してしまったかのようである。
 しかし、精神の底流には欣求浄土(浄土を欣い求めよ)の心がある。たとえ霊魂や来世の存在は信じられなくても、逝った人が「天国で安らか」であることを祈らずにはいられない。
 この天国のイメージにはキリスト教の影響が強いのだろうが、たいていの人はクリスチャンではない。「どこか明るく幸せなところに行ってほしい」という気持ちが「天国」という言葉になるのだろう。


「極楽浄土を信じられるか1」へ
(大角修)

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