仏教公伝と排仏・崇仏派 

6世紀半ばの『日本書紀』欽明天皇十三年の条に百済の聖明王から仏像と経典などが献上されたとある。「仏教公伝」とよばれる出来事である。

聖明王の国書には「仏法の福徳果報はこの上ない安息をもたらし、祈り願うことは意のままにかないます。遠くは天竺より、ここ百済・高句麗・新羅の三韓にいたるまで、この教えに帰依していない国はありません」と書かれていた。

欽明天皇は仏像を祀るべきかどうかを臣下に問い、大臣の蘇我稲目は「百済より西の国々は皆、仏法に帰依しております。日本だけ、そうしないことができましょうか」と答えた。

 大連の物部尾輿と連の中臣鎌子は「我が国の天下の王にまします天皇は昔から天地の社の百八十の神々を春夏秋冬にまつり、拝みたまうことを恒とされてきました。今ことさらに蛮神(外国の神)を拝みたまわば、おそろしくも我が国の神々の怒りをよびましょう」という。

ここから、いわゆる崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏らの戦いが始まる。それについて崇仏派の蘇我氏は進歩的な開明派だったという解説が見られる。しかしそれは、明治維新のときのイメージで、文明の進んだ外国に対する開国は「開明」というように安易に語られてはいないか。

『日本書紀』には百済から盛んに援軍を求めてきたという記事があり、当時の中国・朝鮮半島の情勢をみても、仏教公伝は軍事的な同盟のしるしであった。

そもそも、仏教は釈迦の時代から1000年がたち、いわゆる「国家仏教」として発展していた。日本に伝来したのは最初から「国家仏教」であり、いわゆる個の信仰としての宗教ではない。

そのことを「新・日本の歴史」では、以下の「仏教の誕生と広まり」の項に述べた。


仏教の誕生と広まりクリックで拡大します。
1巻P28-29 1巻P30-31 1巻P32-33

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全巻目次
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