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大宝律令・寺と僧のしくみ01 

推古天皇二年(594)、三宝興隆の詔が下された。この詔によって蘇我氏が飛鳥寺(法興寺)、聖徳太子が法隆寺などを建立したが、まだ国家の官寺ではなかった。国家として寺院を建立するようになるのは大化元年(645)、孝徳天皇の仏法興隆の詔からである。同年、僧尼を管理する10人の僧(十師)と、寺院を運営する役人(寺司など)を任命した。

さらに大宝元年(701)、大宝律令の一環として僧尼令27条を定めて僧尼を統制した。そこに出家の手続きも図のように定められている。

第1巻僧尼図1 画像はクリックで拡大します。

得度は「度を得る」すなわち悟りを成就することを意味するが、実際には出家すること、とりわけ国家によって出家させることを言い、古代の文献には「僧○○人を度す」といった記述が多い。

図の手続きに従って出家させることを官度という。官度の僧尼が「官僧」で、租税が課される公民の戸籍から抜いて僧籍(僧尼名籍)に移される。氏族の私寺である氏寺の僧も官僧に含まれる。

対して、この手続きを経ずに出家することを私度といい、正式な僧尼とは認められず、優婆塞・優婆夷うばそく・うばい(在家信徒を意味する語)と呼ばれたが、天皇不予(病気)や天候不順・疫病流行のときなどに一度に何百人も官度するようになった。

奈良時代には鑑真を唐から招いて国家の戒壇を設け、上図のしくみに加えて授戒のしくみを整え、太政官から授ける「戒牒かいちょう」という文書をもつ者が正式の官僧とされる。それについては後述するが、天台宗の開祖・最澄の戒牒が現存する。しかし、空海の戒牒は現存しない。受戒したという記録もないため、空海が正式の僧だったかどうかはわからない。空海は私度僧だったという説もある。

なお、大宝元年には孔子をまつる釈奠せきてんが初めておこなわれた。しかし、儒教は官吏の文章道の素養にとどまり、空海は儒教では来世の父母を救うことができないので出家したと自著『三教指帰』に書いている。

僧尼令の定め
第1巻p64-65

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全巻目次

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(大角修)

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