天皇の終活・天皇の葬儀 

昨日8月8日、天皇のお言葉があった。生前退位を望まれていることはすでに周知のことだったが、ご自身の葬儀にまで触れられたのは意外だった。

次のように語られている。
「天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます」

葬儀ではなく「喪儀」なのは、「葬」という言葉のもつ宗教性を避けられたのだろうか。「喪儀」はお別れの儀という意味合いが強いと思われる。殯も古代には天皇の遺体の前で徳を讃えて送る儀式だった。近年は葬儀をおこなわずに「偲ぶ会」を催す風潮に通じるような気がする。


ところで、天皇の葬儀についての法的な規定は、701年、大宝律令の「喪葬令」に始まる。そこには「葬埋」して陵を築くことが定められているが、持統天皇(703年崩御)を火葬の初めとして、聖武天皇は生前戒名をもち僧の読経をもって送られた。

聖武天皇・光明皇后は土葬で陵も造られたが、平安時代になると、土葬だったり火葬だったりする。陵のそばに寺を建てて供養したり、初めから寺の境内に土葬の塚を造ったり、火葬して法華堂に納骨したりした。その葬儀にあたるのは僧たちであった。

江戸時代にはもっぱら土葬になるが、天皇の葬儀・埋葬は京都の真言宗泉涌寺で行うのが常になった。

明治の神仏分離は天皇の葬儀にも及び、仏式を排して神葬祭となった。その最初は幕末の孝明天皇(1867年崩御)、本格的には英照皇太后(明治30年崩御)の大葬からである。京都東山の後月輪陵に埋葬された。

なにしろ1000年以上もおこなわれなかった皇后の神葬祭だから、たいへんなことである。明治42年に「皇室服喪令」が宮内大臣・伯爵田中光顕、内閣総理大臣・侯爵桂太郎によって布告された。その第19条に天皇・皇后の「喪ニ丁ルトキハ大葬トス」とあり、1年の服喪が規定されている。

その後の明治天皇の御大葬は、葬儀は東京の青山、埋葬が伏見の桃山でおこなわれた。そして、明治天皇后の昭憲皇太后の崩御(大正3年)ののち、明治天皇・皇后を祭神として明治神宮が創建された。

大正天皇・皇后からは武蔵陵墓地(多摩御陵)に埋葬されているが。今の天皇は数年前、葬祭も簡素を旨とし、火葬を望まれるとのべられたことがある。当面は生前退位のありかたが課題だが、いずれは「喪儀」も検討されることになるのだろう。

おりから近年は、われわれ庶民も自分の葬式や墓をどうするのかが課題になった。いわゆる終活が盛んであるが、そんな問題はかつて経験したことのないことなので、たいへん困る。死は個人のものでも、葬儀は地域のイベントで葬式組が諸事万端を遂行した。明治の旧民法あたりから親族、家のイベントになるが、喪主はボーッとしていれば、事は進んだ。

今は地域の伝統が弱まり、親族・家族も小さくなった。独りきりで親の死に直面したり、自分自身の行き先を考えねばならないようなことになってきた。

なんとかしろと言われても、わずかなきょうだいや独りでなんとかしたことなんか、おそらく人類の社会の歴史にあることではあるまい。だから、自分でなんとかしろと言われても困る。とてもきつい時勢になってしまった。


明治大葬
『明治天皇御大葬写真集』より儀仗兵が並ぶ中を桃山陵に向かう御大葬の行列大角修

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://ookadoosamu.blog10.fc2.com/tb.php/303-2fa22008