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映画『シン・ゴジラ』と宮沢賢治『春と修羅』 

初の緑の日に『シン・ゴジラ』を観てきた。オープニングは東京湾に漂う無人のレジャーボート、そのキャビンのテーブルに詩集『春と修羅』が置かれている。意味ありげなシーンなので、ネットの評判にもなっているようだ。

最初のゴジラは1954年、核兵器をつくった人類の愚かさをテーマとして登場した。アメリカ映画の『GODZILLA 』はスピーディな動きで見せたが、『シン・ゴジラ』は原点に戻って核兵器が重要なテーマになっている。詩「春と修羅」の「はぎしり燃えてゆききする/おれはひとりの修羅なのだ」という怒りが、それを暗示しているのだろうか。

詩「春と修羅」では「いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様」の「腐植の湿地」にも「正午の管楽よりもしげく/琥珀のかけらがそそぐ」し、「れいらうの天の海には/聖玻璃(せいはり)の風」が行き交う。

希望は失われない。
それが『シン・ゴジラ』のメッセージになっているところも『春と修羅』に通じるといえよう。

結末を言うのはまだ観ていない人には申し訳ないが、最後にゴジラは巨大な立ち姿のまま凍結して終わる。アメリカ映画なら、ちょっと目が動いたりして「悪魔は滅びす」となるのが通例だが、『シン・ゴジラ』にそれはない。

じっと動かない姿は、どこか哀れだ。それも宮沢賢治の『春と修羅』ふうなのかもしれない。

(大角修)

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