幕末に復活した古代の墳丘・孝明天皇陵 

幕末の尊王運動のなかで人皇初代の神武天皇以来の万世一系の皇統が日本の国体の柱として強調されるようになった。それを跡づけるため、幕府が実施したのが歴代天皇陵の探索と修陵という大事業だった。

それは譜代の宇都宮藩が幕府に提言し、家老=戸田忠至が家臣団のほか絵師、大工の棟梁などを加えて文久2年(1862)11月から3年がかりでおこなったことから「文久の修陵」という。

時に孝明天皇(明治天皇の父)の代である。孝明天皇は強固な攘夷主義者だったが、妹の和宮を将軍家茂に降嫁させるなど、公武合体の天皇でもあった。

ところが、慶応2年(1866)12月、孝明天皇が36歳で崩じた。暗殺説もある急死だが、昔は多かった疱瘡による病死である。

この孝明天皇の葬儀は、皇室の菩提寺だった泉涌寺でおこなわれたが、王政復古に向かう幕末のことで、神葬祭の前段階を示す形になった。

大きく変化したのは陵の形だ。それまでの天皇陵は下の写真のように石の九輪塔の仏塔形式だった。(写真はネットより)
月輪陵ネット(クリックで拡大)
江戸時代の歴代天皇・皇后の陵(月輪陵・後月輪陵)皇族の菩提寺だった泉涌寺

山陵奉行に任じられた戸田忠至ら尊王の復古派はこれを拒否し、古代の古墳のような墳丘を復活させた。

いわゆる古墳時代は畿内では6世紀には終わり、平安時代初期には火葬・散骨した天皇もあったくらいで、大きな墳丘はまったく姿を消した。それが千年の時を超えて復活した。神武創業の始めに基づき、という王政復古の機運の現れだった。

孝明天皇陵・文久『文久山陵図』の孝明天皇陵(新人物往来社『文久山陵図』より)

文久の修陵の結果は、慶応3年に『文久山陵図』という図録にまとめ、幕府と朝廷に献上された。新造の孝明天皇陵も図録に加えられている。それが上図である。

その場所は泉涌寺の裏山、といっても伽藍の裏手なのだが、この図では泉涌寺の建物が消されている。意図的である。この復古派の原理主義が明治維新時の過激な神仏分離をもたらす。それには大久保利通ら新政府の実務官僚は辟易したり大いに迷惑したりし、明治初期の神祇官の混乱をもたらした。

孝明天皇陵は泉涌寺の裏山にある。現在は下の写真のように木が茂って陵の姿は見えない。

孝明天皇陵孝明天皇陵(後月輪東山陵)


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