12人の天皇の遺骨を納めた深草北陵 

下の写真は深草北陵という。鎌倉時代の後深草天皇(1304年崩御)から江戸時代初期の後陽成天皇(1617年崩御)まで12人の天皇の陵所なので「深草十二帝陵」とも呼ばれるが、歴史や古典文学に親しむ人には「深草法華堂」というほうが馴染み深いことだろう。明治の神仏分離は陵名からも法華堂という言葉を奪ったのだが、今も仏堂のような建物だ。
深草北陵

天皇陵の正面には鳥居が設けられているのが普通だが、ここは井桁の門構えである。塀重門というらしい。この門構えは皇室の菩提寺だった泉涌寺の裏山にある孝明天皇陵も同じだ。

深草北陵2(クリックで拡大)
所在地は京都市伏見区深草坊町。JR奈良線の踏切を渡ってすぐのところに駐車場と参道入口があるが、うっかりすると通り過ぎてしまう。

古事類苑・深草北陵
深草北陵の内部(『古事類苑』より)

ところで、皇室の菩提寺だった泉涌寺のページで述べたが、泉涌寺の天皇陵の区域(月輪陵・後月輪陵)には5つの灰塚がある。江戸時代には後陽成天皇を最後に火葬が途絶え、以後、昭和天皇までずっと土葬なのだが、それ以前は土葬だったり火葬だったりした。灰塚は火葬の跡で、荼毘塚ともいう。

火葬の場所は泉涌寺に限らず、亡き天皇の御願寺(勅願所)など、ゆかりの寺院が多かった。そして12人の天皇の遺骨が深草法華堂に納められたのである。

法華堂の床下に埋葬された天皇もある。源平合戦の動乱を生き抜き、66歳の建久3年に崩じた後白河法皇は、三十三間堂の名で知られる蓮華王院の法華堂に土葬された。堂の地下に石室をつくり、棺を納めたのである。

法華堂は、墓地の三昧堂に多い。なぜそうなのかは、近年のサンスクリット経典からの翻訳や現代の法華経の解釈で知ることが難しい。そこには日本の歴史と文化の中での法華信仰が脱落しているからだ。

それについては項を改めて述べるとして、ここでは平清盛も源頼朝も法華堂に埋葬されたこと、源義経が死ぬ前に弁慶が立ち往生をしたというお話の背景にも法華信仰があることのみを記しておきたい。
『法華経の事典 信仰・歴史・文学』


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