崇徳院か崇徳天皇か 

『崇徳院』という古典落語がある。「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」という『小倉百人一首』の恋歌をネタにした噺だ。

崇徳院は保元の乱(1156年)に敗れ、四国に流された上皇だ。みずから書写した写経だけは都あたりの寺社に納めてほしいと願ったが、その望みは絶たれて讃岐の白峰で崩じた。その恨みのため、日本最強の怨霊になったと『保元物語』にいう。

「日本の大魔縁になった崇徳天皇」(『天皇家のお葬式』より)
天皇家p042『天皇家のお葬式』p43

天皇家p044p44


この崇徳院をまつる京都市上京区の白峰神社は明治天皇が明治元年(1868年)に創建した。「われても末にあはむとぞ思ふ」という崇徳院の願いは、700余年の時を経てかなえられたということになる。

白峰寺

白峰寺の案内板 崇徳天皇は白峰寺(香川県坂出市)の山で荼毘にふされ、そこが陵とされる。同寺の案内板、左端の鳥居のところに「白峰御陵」とある。白峰寺は四国第八十一番札所である。

ところで、崇徳院は生前の名を「顕仁あきひと」といった。天皇は上皇になると、たいていは居所の名で「○○院」と呼ばれる。先に父帝が上皇になっているときは父を「本院」、新しく上皇になったほうを「新院」と呼んで区別するなど、適宜呼び分けた。日本では直接に名を呼ぶことは避けられるので、地名や順序で「院」を呼び分けたわけだ。

崇徳院は配流と崩御の地から「讃岐院」と呼ばれていたが、崩御後、京都で大火が起こるなど、不吉なことが続いた。これは讃岐院の祟りに違いない。ということで、「崇徳」という有難い名をおくって怨霊を鎮めたのだった。

「○○天皇」という天皇号が復活したのは江戸時代後期、尊王運動が高まった頃だった。さらに「第七十五代崇徳天皇」というように歴代の代数が決められたのは明治時代、最終的には大正時代のことだった。

なので、歴代は一定ではない。また、呼び方も一定ではないのだが、『小倉百人一首』の「瀬を早み」の歌の作者は崇徳院であって、崇徳天皇では違和感がある。まして、お笑いの落語の題を「崇徳天皇」というわけにはいくまい。

しかし今日の歴史の記述では崇徳天皇である。そんな呼び方は明治以降で、生前の名でもないのだが、歴史の記述では「崇徳天皇」と表すのが1種の約束事になっている。

歴史はそのような約束事によって記述されるもので、特に必要もないのに勝手に変更されると混乱してしまう。文科省は定着した約束事を「実証史学」を装うのか、むやみに変更するので困ったものだ。

近年、聖徳太子は生前の呼び名ではないという理由で、教科書では厩戸王にするといい、さすがに反対が多くて取りやめた。いったい、どんな頭からそういう発想が湧いてくるのか、まことに不思議である。

「天皇号の復活」(『天皇家のお葬式』より)
天皇家p074p75
天皇家p076p76〜77
天皇家p078p78


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