角川ソフィア文庫『全品現代語訳 法華経』 

「はじめに 法華経をどう読むか」につづいて本書の経緯を書いた「おわりに 経典の霊性 」をアップします。

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「はじめに」で述べたように、本書は『[図説]法華経大全』(学習研究社・二〇〇一年刊)を文庫版に改めたものです。無量義経・観普賢菩薩行法経の抄訳を加えたほか、日本の法華信仰をふまえた解説を拡充しましたが、経文の現代語訳はほぼ前著を踏襲しています。

『[図説]法華経大全』は幸い多くの方に御購読いただきました。読者の反響のうち、もっとも驚いたのは偈だけ拾って読んだという方がいたことです。
 本書の偈はあらかじめ現代語に改めたうえで短く再構成したものです。それにしても、漢字だらけの語句が難解な印象を読者に与えるのではないかと危惧し、前書きで「偈の内容は本文の繰り返しであるから、飛ばして読んでいただいてもさしつかえはない」とことわっておいたのですが、逆に偈だけ読んだという人がいたのは、じつに驚きでした。

 さらに、偈の部分をコピーして自分で経巻のようなものをつくり、寝る前にベッドで読んでいるという方までありました。法華経から経文を抜粋して読誦用の経巻にした本も市販されているのですが、それは仏前で読むための造りなので、ベッドで読むのは気がひけるからでしょう。
 これらは私にとって嬉しい反応でした。というのは、法華経を現代語に改めるにあたってもっとも気をつかったのは「聖典を貶めない」ということだったからです。経文の意味はよくわからなくても、なんとなく有難いというところに経典の霊性というものの実際があります。

 その点で、漢語の文字と響きに勝るものは今もありません。日本の仏教文化と信仰は漢訳経典に依拠して培われたものなので、今日でも読経に現代語訳が用いられることはなく、漢訳経典に代わりうるものはないのです。

 この漢訳経文を崩しすぎると、言葉の力は失われ、聖典を貶めることになりかねません。それで本文中に偈を残したのですが、もとの経文ではたいへん長い偈があるので、漢詩程度の短さに圧縮しました。ただ、よく読誦される如来寿量品と観世音菩薩普門品の偈は真読(漢文のまま)と訓読の全文を掲載しました。
 もうひとつ気をつかったのは、言葉のイメージを新鮮なものにできるかという点でした。原文を正確に現代語に改めるだけでは、その言葉がもつイメージのふくらみがなく、結局、何のことかわからないことになります。といって、ひとつの語句にどんなイメージをもつかは個人差が大きいので、どういう表現がいいのかはわかりません。私が参考にしたのは宮沢賢治の童話「雁の童子」でした。前著『法華経大全』で現代語訳したときには「雁の童子」の朗読CDをくりかえし聞きました。315ページの「道場観と宮沢賢治の『雨ニモマケズ』」、383ページの「陀羅尼と祈り」で宮沢賢治にふれたのも、そういう事情からです。

 賢治は『雨ニモマケズ手帳』に「法華文学ノ創作」というメモをのこしているので、その作品を「法華文学」というなら、童話では「雁の童子」、詩では『春と修羅』補遺の〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕をもっとも「法華文学」らしい作品としてあげたいと思います。
「雁の童子」は、西域の流沙という町の南の小さな泉のほとりで若い巡礼と年老いた巡礼の二人が出会って話すところから始まります。
 その泉のそばに建っている新しい小さな祠のことを若い巡礼が「あのお堂はどなたをおまつりしたのですか」とたずね、老巡礼が「童子のです。(中略)雁の童子と仰っしゃるのは、まるでこの頃あった昔ばなしのようなのです」と雁の童子の物語を、こんなふうに語りはじめます。

 ある明方、須利耶すりやさまが鉄砲をもったご自分の従弟の方とご一緒に、野原を歩いていられました。地面はごく麗わしい青い石で、空がぼおっと白く見え、雪もま近でございました。(『宮沢賢治コレクション4』筑摩書房・二〇一七年/以下同じ)

 須利耶さまは流沙で写経を生業としてくらしています。その町の「地面はごく麗わしい青い石で」というあたりは仏の国の瑠璃の大地を思わせます。ところが、その従弟は鉄砲で雁を撃つことが楽しいという悪い人です。その悪い人が「従弟の方」「お従弟さま」と敬語でよばれていて、いつか天王如来という仏になるという提婆達多を思わせます。そして、老巡礼の話がおわったあと、この童話はこのように結ばれます。

「尊いお物語をありがとうございました。(中略)ほんの通りかかりの二人の旅人とは見えますが、実はお互いがどんなものかもよくわからないのでございます。いずれはもろともに、善逝スガタの示された光の道を進み、かの無上菩提ぼだいに至ることでございます。それではお別れいたします。さようなら。」
 老人は、黙って礼を返しました。何か云いたいようでしたが黙って俄かに向こうを向き、今まで私の来た方の荒地にとぼとぼと歩き出しました。私も又、丁度その反対の方の、さびしい石原を合掌したまま進みました。

「善逝の示された光の道を進み、かの無上菩提に至る」というところは直接的に法華経の内容につながりますが、そのほかにも、法華経を暗示させるところがたくさんあります。だからといって、それが法華経によると言って法華経に引き戻してしまったら、賢治のファンタジックな作品世界は壊れてしまいます。

 日蓮で言うなら「文底秘沈もんていひちん」です。大事な法門は法華経の文の底に秘かに沈めおかれているというのです。その秘密の法門には、経文の文字面を読むだけでは入ることができません。賢治も、その作品の表面から法華経を秘匿することによってイメージの広がりをもたらし、より深く法華経の世界を突きつめたのだと思われます。
 本書では、古典文学の和歌や今様、霊験譚などを多くとりあげました。そこには理屈を超えて、法華経の世界があらわされているからです。

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