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後白河法皇も平清盛も源頼朝も法華堂に眠る 

霊の鎮まる法華堂(角川ソフィア文庫『全品現代語訳 法華経』「法華経の小事典」よりより)

 平清盛は源平合戦がつづく治承五年(一一八一)に京都の六波羅で没した。『平家物語』巻第六「入道死去」の段は、 清盛は「供養はいらない。頼朝の首を我が墓前に架けよ」と遺言したと語る。しかし、『吾妻鏡』「入道平相国薨ず」では、まったく異なる遺言を伝える。

「三ヶ日より以後に葬りの儀あるべし。遺骨においては播磨国山田の法花堂(神戸市)に納め、七日ごとに形のごとく仏事を修すべし。毎日これを修すべからず。また京都において追善を成すべからず。子孫はひとへに東国帰往の計を営むべし」

 建久三年(一一九二)三月、源平合戦の動乱の世を生き抜いた後白河法皇が崩じた。院の御所だった法住寺(京都市東山区)の法華堂で法要がいとなまれ、遺体はその床下に埋葬された。法住寺は平清盛が後白河法皇のために蓮華王院(三十三間堂)を建てた寺である。

 建久十年(一一九九)一月には頼朝が死没。翌年の一周忌には鎌倉の法華堂で盛大に法要がいとなまれたことが記されている。本尊は釈迦三尊絵像、経は金字法華経、導師は臨済宗の栄西だった。
 平安時代から鎌倉時代にうつる動乱の世の三人の主役といえる後白河法皇、平清盛、源頼朝は皆、法華堂に葬られた。法華堂の本尊や形式に決まりはないが、日々に法華経を読誦して供養した仏堂である。

 ちなみに、京都深草の深草法華堂は火葬された天皇の遺骨を納めた仏堂で、鎌倉時代の後深草天皇(一三〇四年崩御)から江戸時代初期の後陽成天皇(一六一七年崩御)まで十二人の天皇が眠る。そのため、古典文献には「深草法華堂」という名がしばしば見られる。幕末から明治にかけての天皇陵の整備と神仏分離によって深草北陵とよばれるが、今も外見は仏堂様式である。

深草北陵(画像はクリックで拡大します)
深草北陵 もとは深草法華堂といった。後深草、伏見、後伏見、北朝の後光厳、北朝の後円融、後小松、 称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成の12人の天皇の陵であることから「十二帝陵」ともいう。(京都市伏見区)

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