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明治天皇は文明開化を象徴し帝国憲法で「臣民」に君臨した 

「近代・現代の天皇1」『図解・天皇と皇室入門』より)

文明開化・富国強兵が国の目標になったころ、天皇がそれを率先した。

図解天皇p74-75

文明開化・富国強兵の世に
 尊王攘夷をスローガンに江戸幕府をたおした明治新政府は、一転して開国路線をとりました。じつは攘夷にも小と大があるという考え方がありました。国情を無視してむやみに異国船打払を実行するのは小攘夷、ひとまず開国しても国力・兵力を強化して異国排除をめざすことを大攘夷といいます。そこで文明開化・富国強兵が明治日本の目標になりました。そして欧米諸国に学ぶため、1871年(明治4)から73年にかけて岩倉具視・大久保利通ら政府首脳が欧米諸国への視察に出かけました。その使節団の一員に、のちに大日本帝国憲法を制定するための会議である枢密院の議長になる伊藤博文がいました。

 帝国憲法はイギリスなどにならった立憲君主制の憲法です。君主(王)といえども憲法にしたがう国のしくみなのですが、伊藤博文は日本では国民全体をまとめられる存在は天皇のほかにないとして、枢密院の意見を「憲法大綱領」にまとめました。その第1項は「憲法は欽定の体裁を用いる」です。欽定とは「君主による制定」という意味で、天皇が定めて天皇が布告するということです。

 憲法の制定は板垣退助らの自由民権運動に政府がおされた面もありますが、明治政府は早い時期から憲法制定を見越していました。1872年(明治5)に国民皆兵の「徴兵告諭」を布告するにあたって、将来は憲法を制定して国民を結集することを決めました。その国民結集のために定められたのが欽定の帝国憲法で、1889年(明治22年)に発布、翌年11月に帝国議会開会。それによって左図の近代日本の国家のしくみがつくられました。

 帝国憲法の第1条は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」です。古代から続いてきた天皇が日本を治めるという意味ですが、第4条には「天皇は国の元首にして統治権を総攬し此の憲法の条規に依り之を行う」と定められています。天皇は日本の元首で国家の政治全体を見るけれども、この憲法の定めていることには従わなければならないということです。

 現在の日本国憲法との大きな違いのひとつは国民が「臣民」すなわち、天皇の臣下とよばれていることです。それまで臣下は貴族や朝廷の役人だけのことでしたが、国民のすべてが臣下となり、国民は熱狂して、この憲法をうけいれました。
いっぽう、天皇・皇族は臣下ではないので憲法の適用をうけず、別途、皇室内の規則として皇室典範が天神地祇と皇祖・歴代天皇の霊に誓う形で定められました。


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