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宮沢賢治と新渡戸稲造シンポジウム 

明治・大正の精神[洋行の世紀から脱近代へ]

宮沢賢治と新渡戸稲造はともに没後84年。4月1日、八重洲ブックセンターにて「イーハトーブの風・トキオの風」のコンサート、シンポ、「銀河鉄道の夜」の映画会があります。プログラムはちらしのとおりです。

180401セミナーちらし

午後のシンポに出席します。冒頭、簡単な基調報告をしてほしいということで「明治・大正の精神/洋行の世紀から脱近代へ」ということでまとめてみました。

幕末から明治初期にかけて洋行した人々が近代日本のリーダーになりました。なかでも最大規模だったのが岩倉使節団(明治4年6年)。総勢107名のうちほぼ半数はそのまま欧米諸国に留まる留学生でした。
英文で「武士道」を発表した新渡戸稲造はもちろん、賢治にも幕末〜明治初期の「洋行者」は大きな影響を与えました。賢治には「科学と宗教の統合」といった課題を与えます。

以下、大きくグリップすると、以下の流れをたどることができます。

◉新渡戸稲造(文久2年/1862〜1933)…日本的倫理の発見
 『Bushido: The Soul of Japan』(アメリカで出版1900・和訳『『武士道』1908)
◉宮沢賢治(明治29/1896〜1933)
 『春と修羅』『注文の多い料理店』(1924)
◉和辻哲朗(明治22年/1889〜1960)…日本論の先駆/『古寺巡礼』(1919)、『風土』(1931)

◉第一次世界大戦(1914〜18)
 シュペングラー(1880〜1936)著『Der Untergang des Abendlandes(西洋の崩壊)』第1巻(1918/和訳『西洋の没落』1926)…脱近代意識の誕生。ただし日本では「西洋の没落」に対して「東亜の興隆」という→太平洋戦争の敗戦後、反公害運動等を契機に脱近代の文脈で賢治が読まれる。

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即位の礼は19年10月 

毎日新聞によると、政府は新天皇の即位の礼を2019年5月1日に行う検討に入ったという。

これまで4月30日退位、5月1日即位と報じられていたが、4月30日に譲位、5月1日践祚(これが2日にわたることは異例だが)、その後、日をおいた即位の礼をおこなう。これは伝統的な形である。

その後、大嘗祭(だいじょうさい)が同年11月におこなわれて、新天皇の即位が完了する。

退位と譲位の混乱 

皇室会議で19年の4月30日退位、5月1日に新天皇の即位と決定された。ちょっと違和感があるのは退位と即位が2日にわたることで、歴史上、前例がない。

どうも「退位」という用語がおかしい。昨年8月のビデオメッセージののち、美智子皇后がメディアが一斉に「退位のご意向」と報じたことに胸が痛む。これまで「退位」という言葉は聞いたことがないとおっしゃられたこともある。

天皇の代替わりは、譲位・践祚(せんそ)のあと、日をおいて即位の礼を営み、さらに11月の大嘗祭(だいじょうさい)をもって一応の完了となる。

江戸時代までは生前に譲位することが多かった。践祚は神器を受け継ぐことで、これが皇位の受禅(じゅぜん)にあたる。譲位・践祚は同日おこない、日をまたぐことはない。
崩御によるときも、即日、践祚の礼をおこなった。天皇がいないことは一日とて許されないからだ。

ところが、今回は退位の翌日に即位するという。歴史的に、こんなことはありえない。

おそらく、4月30日に「退位」ではなく、譲位・践祚の礼をおこない、翌5月1日に即位の礼をおこなうという日程なのだろう。


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残される者たちへの思いが「おことば」の中ににじんでいる 

『サンデー毎日』先週号(11月26日号)の「今こそ、読みたい」という蘭に『天皇のお葬式』が取り上げられています。

サンデー毎日(クリックで拡大)

評者は池内紀さん。内容と意図を正確に紹介してくださいました。

「残される者たちへの思いが「おことば」の中ににじんでいる」という見出しの「おことば」は昨年8月、天皇が退位の意向を示されたビデオメッセージのことです。

池内紀さんは「近年の天皇、皇后の各地への行幸はきわだっいている。とりわけ太平洋戦争の激戦地を巡り、深々と頭を下げる姿は、ひときわ鮮烈だ。あきらかに時代の動向への危惧と批判をこめてのことにちがいない」と述べておられる。私も、そのとおりだと思う。

ただ、続く末尾の「憲法をいじりたくてならないおひとは、どんな目で見ているのだろう?」というのは、少し同意できない。私は憲法改正は必要だと思う。

しかし、「憲法をいじりたくてならないおひと」(たぶん安倍総理のことか)でも、うかつには手を出せまい。憲法改正には国民投票が必要だが、おそらくチャンスは一度きりだ。何がなんでも平和憲法を守れといったいキャンペーンは支持されやすく、強力な護憲の風を吹かせる可能性がある。それが「憲法をいじりたくてならないおひと」の行動を慎重にさせるだろう。

したがって、国民投票が時の風向きではなく、安定して国民の多数の賛同を得られるように、じっくりと論議してもらいたいものだが、現在の国会論議はどうでもよい些事でもニュースになりやすいことぱかり熱をあげて、そうならないところが問題だ。

池内紀さんの「憲法をいじりたくてならないおひとは、どんな目で見ているのだろう?」という言葉に関して言えば、私は戦前・戦中に強調された「国体」という言葉が日本会議などで「美しい日本の国がら」と言葉を変えて復活してきたことを不安に思う。

そのため、『天皇のお葬式』では、「国体」という言葉がどういう経緯で出てきたのかを第5章「尊皇の潮流」等で重視してフォローした。



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行ってみて驚いた!「天皇のお墓」をご存知か 

講談社WEBマガジン「現代ビジネス」に上記のタイトルで『天皇家のお葬式』が取り上げられました。
「行ってみて驚いた!「天皇のお墓」をご存知か」

その記事中にある明治天皇陵(京都市伏見区)の写真です。

明治天皇陵石段
明治天皇陵参道の石段

明治天皇陵1明治天皇陵

☞「現代ビジネス」前回の記事「「天皇家の葬儀」は、なぜ仏式から神式になったのかご存知ですか

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時代の変化を映す天皇の葬儀 

講談社の読書人の雑誌『本』2017年11月号に『天皇家のお葬式』が上記のタイトルで掲載されました。
本表紙『本』2017年11月号

本p34「時代の変化を映す天皇の葬儀」


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崇徳院か崇徳天皇か 

『崇徳院』という古典落語がある。「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」という『小倉百人一首』の恋歌をネタにした噺だ。

崇徳院は保元の乱(1156年)に敗れ、四国に流された上皇だ。みずから書写した写経だけは都あたりの寺社に納めてほしいと願ったが、その望みは絶たれて讃岐の白峰で崩じた。その恨みのため、日本最強の怨霊になったと『保元物語』にいう。

「日本の大魔縁になった崇徳天皇」(『天皇家のお葬式』より)
天皇家p042『天皇家のお葬式』p43

天皇家p044p44


この崇徳院をまつる京都市上京区の白峰神社は明治天皇が明治元年(1868年)に創建した。「われても末にあはむとぞ思ふ」という崇徳院の願いは、700余年の時を経てかなえられたということになる。

白峰寺

白峰寺の案内板 崇徳天皇は白峰寺(香川県坂出市)の山で荼毘にふされ、そこが陵とされる。同寺の案内板、左端の鳥居のところに「白峰御陵」とある。白峰寺は四国第八十一番札所である。

ところで、崇徳院は生前の名を「顕仁あきひと」といった。天皇は上皇になると、たいていは居所の名で「○○院」と呼ばれる。先に父帝が上皇になっているときは父を「本院」、新しく上皇になったほうを「新院」と呼んで区別するなど、適宜呼び分けた。日本では直接に名を呼ぶことは避けられるので、地名や順序で「院」を呼び分けたわけだ。

崇徳院は配流と崩御の地から「讃岐院」と呼ばれていたが、崩御後、京都で大火が起こるなど、不吉なことが続いた。これは讃岐院の祟りに違いない。ということで、「崇徳」という有難い名をおくって怨霊を鎮めたのだった。

「○○天皇」という天皇号が復活したのは江戸時代後期、尊王運動が高まった頃だった。さらに「第七十五代崇徳天皇」というように歴代の代数が決められたのは明治時代、最終的には大正時代のことだった。

なので、歴代は一定ではない。また、呼び方も一定ではないのだが、『小倉百人一首』の「瀬を早み」の歌の作者は崇徳院であって、崇徳天皇では違和感がある。まして、お笑いの落語の題を「崇徳天皇」というわけにはいくまい。

しかし今日の歴史の記述では崇徳天皇である。そんな呼び方は明治以降で、生前の名でもないのだが、歴史の記述では「崇徳天皇」と表すのが1種の約束事になっている。

歴史はそのような約束事によって記述されるもので、特に必要もないのに勝手に変更されると混乱してしまう。文科省は定着した約束事を「実証史学」を装うのか、むやみに変更するので困ったものだ。

近年、聖徳太子は生前の呼び名ではないという理由で、教科書では厩戸王にするといい、さすがに反対が多くて取りやめた。いったい、どんな頭からそういう発想が湧いてくるのか、まことに不思議である。

「天皇号の復活」(『天皇家のお葬式』より)
天皇家p074p75
天皇家p076p76〜77
天皇家p078p78


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近代日本の歩みを映す天皇の葬儀 

『天皇家のお葬式』(講談社現代新書)が発売されました。☞講談社『現代ビジネス』記事へ

この本は古代から現代の大葬までの葬法の変遷をたどりましたが、主要なテーマは明治・大正・昭和3代の葬儀です。明治維新以来の日本の歩みが、そこに象徴的に表れているからです。

とりあえず目次と「はじめに」をアップします。

天皇家p10目次目次(クリックで拡大)
天皇家p02「はじめに」1
天皇家p04「はじめに」2
天皇家p06「はじめに」3
天皇家p08「はじめに」4

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万世一系は虚構なのか 

カズオ・イシグロの文学白熱教室という討論番組がノーベル文学賞受賞を機にNHKで再放送された。カズオ・イシグロは個人にも社会にもフィクションが必要だと語る。

フィクションは虚構だが、嘘だということではない。たとえば第二次大戦中、フランスにはナチス・ドイツに協力する人がたくさんいた。レジスタンスとしてナチス・ドイツと戦ったフランス人もいたけれど、それは少数だった。

しかし戦後、フランス人はみんながレジスタンスで、ナチス・ドイツに抵抗したと言われる。それは戦後のフランスが立ち直るには必要なフィクションだったのであり、意味のない嘘だというわけではない。イシグロは、社会にも個人にもフィクションが必要だと言う。

江戸中期から水戸学や国学で「国体」の柱として強調されるようになった天皇の万世一系も虚構だった。そして明治天皇の大葬は、古式に則って営まれたということになるのだが、実はほとんど何もかも新しく創案されたと言っていい。

喪服が白から黒になったのも、明治時代からである。政府は世界の主要国の葬儀・祭礼の服装を調査して、近代日本にふさわしい礼法を探り、喪服は「黒」とし、国旗にも黒布をかぶせた。同時に平安ふうの装束も用いて和様混在の葬儀になった。

このような儀式も、万世一系の皇統も、宮沢賢治の童話「雁の童子」にある言葉でいえば「まるでこの頃あった昔ばなしのよう」なシーンを現出した。だからといって、それは単なる虚構ではない。

新しい時代には新しいフィクションが求められる。そして、伝統はモダン化されることによって再生し、社会を変革する力にもなる。カズオ・イシグロが言うように、個人にも社会にもフィクションが必要なのだ。

明治天皇大葬儀写真
明治天皇大葬の葬列(橋爪紳也『明治天皇大葬儀写真』より)

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幕末に復活した古代の墳丘・孝明天皇陵 

幕末の尊王運動のなかで人皇初代の神武天皇以来の万世一系の皇統が日本の国体の柱として強調されるようになった。それを跡づけるため、幕府が実施したのが歴代天皇陵の探索と修陵という大事業だった。

それは譜代の宇都宮藩が幕府に提言し、家老=戸田忠至が家臣団のほか絵師、大工の棟梁などを加えて文久2年(1862)11月から3年がかりでおこなったことから「文久の修陵」という。

時に孝明天皇(明治天皇の父)の代である。孝明天皇は強固な攘夷主義者だったが、妹の和宮を将軍家茂に降嫁させるなど、公武合体の天皇でもあった。

ところが、慶応2年(1866)12月、孝明天皇が36歳で崩じた。暗殺説もある急死だが、昔は多かった疱瘡による病死である。

この孝明天皇の葬儀は、皇室の菩提寺だった泉涌寺でおこなわれたが、王政復古に向かう幕末のことで、神葬祭の前段階を示す形になった。

大きく変化したのは陵の形だ。それまでの天皇陵は下の写真のように石の九輪塔の仏塔形式だった。(写真はネットより)
月輪陵ネット(クリックで拡大)
江戸時代の歴代天皇・皇后の陵(月輪陵・後月輪陵)皇族の菩提寺だった泉涌寺

山陵奉行に任じられた戸田忠至ら尊王の復古派はこれを拒否し、古代の古墳のような墳丘を復活させた。

いわゆる古墳時代は畿内では6世紀には終わり、平安時代初期には火葬・散骨した天皇もあったくらいで、大きな墳丘はまったく姿を消した。それが千年の時を超えて復活した。神武創業の始めに基づき、という王政復古の機運の現れだった。

孝明天皇陵・文久『文久山陵図』の孝明天皇陵(新人物往来社『文久山陵図』より)

文久の修陵の結果は、慶応3年に『文久山陵図』という図録にまとめ、幕府と朝廷に献上された。新造の孝明天皇陵も図録に加えられている。それが上図である。

その場所は泉涌寺の裏山、といっても伽藍の裏手なのだが、この図では泉涌寺の建物が消されている。意図的である。この復古派の原理主義が明治維新時の過激な神仏分離をもたらす。それには大久保利通ら新政府の実務官僚は辟易したり大いに迷惑したりし、明治初期の神祇官の混乱をもたらした。

孝明天皇陵は泉涌寺の裏山にある。現在は下の写真のように木が茂って陵の姿は見えない。

孝明天皇陵孝明天皇陵(後月輪東山陵)


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12人の天皇の遺骨を納めた深草北陵 

下の写真は深草北陵という。鎌倉時代の後深草天皇(1304年崩御)から江戸時代初期の後陽成天皇(1617年崩御)まで12人の天皇の陵所なので「深草十二帝陵」とも呼ばれるが、歴史や古典文学に親しむ人には「深草法華堂」というほうが馴染み深いことだろう。明治の神仏分離は陵名からも法華堂という言葉を奪ったのだが、今も仏堂のような建物だ。
深草北陵

天皇陵の正面には鳥居が設けられているのが普通だが、ここは井桁の門構えである。塀重門というらしい。この門構えは皇室の菩提寺だった泉涌寺の裏山にある孝明天皇陵も同じだ。

深草北陵2(クリックで拡大)
所在地は京都市伏見区深草坊町。JR奈良線の踏切を渡ってすぐのところに駐車場と参道入口があるが、うっかりすると通り過ぎてしまう。

古事類苑・深草北陵
深草北陵の内部(『古事類苑』より)

ところで、皇室の菩提寺だった泉涌寺のページで述べたが、泉涌寺の天皇陵の区域(月輪陵・後月輪陵)には5つの灰塚がある。江戸時代には後陽成天皇を最後に火葬が途絶え、以後、昭和天皇までずっと土葬なのだが、それ以前は土葬だったり火葬だったりした。灰塚は火葬の跡で、荼毘塚ともいう。

火葬の場所は泉涌寺に限らず、亡き天皇の御願寺(勅願所)など、ゆかりの寺院が多かった。そして12人の天皇の遺骨が深草法華堂に納められたのである。

法華堂の床下に埋葬された天皇もある。源平合戦の動乱を生き抜き、66歳の建久3年に崩じた後白河法皇は、三十三間堂の名で知られる蓮華王院の法華堂に土葬された。堂の地下に石室をつくり、棺を納めたのである。

法華堂は、墓地の三昧堂に多い。なぜそうなのかは、近年のサンスクリット経典からの翻訳や現代の法華経の解釈で知ることが難しい。そこには日本の歴史と文化の中での法華信仰が脱落しているからだ。

それについては項を改めて述べるとして、ここでは平清盛も源頼朝も法華堂に埋葬されたこと、源義経が死ぬ前に弁慶が立ち往生をしたというお話の背景にも法華信仰があることのみを記しておきたい。
『法華経の事典 信仰・歴史・文学』


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この国のあり方を示す天皇の葬儀、「現代ビジネス」に掲載 

講談社のネットマガジン『現代ビジネス』に『天皇家のお葬式』の記事が掲載されました。以下、省略して紹介します。

「天皇家の葬儀」は、なぜ仏式から神式になったのかご存知ですか
この国のあり方をも示すもの

伊勢神宮には皇室の祖先神が祭られているし、天皇は毎年元日の早朝、平安時代から伝わる古式装束を着て祭儀(四方拝)を行っている。だからこそ、天皇の葬儀も神式で行われるのは当たり前でしょ!?――そんなイメージを抱いている人も多いのではないだろうか。

ところがじつは、神式で行われた葬儀は明治天皇、大正天皇、昭和天皇のわずか3回に過ぎず、その歴史が「皇紀2677年」に比して「意外と短い」ということをご存じだろうか。飛鳥・奈良の昔から江戸時代の孝明天皇の葬儀(1867年)まではずっと仏式で行われ、天皇家の菩提寺は泉涌寺(京都市東山区)だった。それが一転、明治以降はなぜ神式に変わったのか。

10月18日に発売となる『天皇家のお葬式』の著者・大角修氏が、古代からの天皇の葬儀の変遷をたどりながら、その時代背景や時代の変化について考察する。

天皇が語られた「自身の葬儀」

平成28年(2016)8月8日、天皇が異例のビデオメッセージの形で生前退位を望む旨の「おことば」を述べられた。詳しくは「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」という。下はその冒頭である。(略)

寺で行われた孝明天皇の葬儀

歴代天皇で初めて火葬されたのは持統天皇で、1300年も昔の大宝3年(703)のことだった。以来、天皇の葬法は火葬だったり土葬だったりし、江戸時代初期の承応3年(1654)に崩じた後光明天皇からはずっと土葬である。(略)

霊柩列車
明治天皇の大葬は現在の神宮外苑に葬場殿を設けて営まれ、陵は京都市伏見区の桃山に築かれた。棺を載せた霊柩列車は大正元年9月14日の未明、午前0時40分に送別の号砲とともに現在のJR千駄ヶ谷駅を発車。その時刻に乃木希典・静子夫妻が自宅で自刃。明治天皇の崩御に加えて乃木大将の殉死が大きな衝撃を与えた。写真は大井川を渡る霊柩列車。河原に見送る人びとが写っている。(『明治天皇御大葬御写真帖』)

ラジオで実況中継された大正天皇の葬儀

明治天皇の崩御と葬儀は、維新から45年、近代日本の歩みにひとつの区切りをつける出来事だった。作家の田山花袋は「明治天皇陛下、“Mutsuhito the great”中興の英主、幼くして艱難に生い立たれて、種々の難関、危機を通過されて、日本を今日のような世界的の立派な文明に導かれた聖上、その聖上の御一生を思うと、涙の滂沱たるを誰も覚えぬものはなかった」と回顧録『東京の三十年』に記している。(略)

「天皇とは何か」を理解するために

次の昭和天皇の在位は歴代最長の64年に及ぶ。その長い期間に、昭和20年の敗戦があり、天皇のありかたがまったく変化した。大日本帝国憲法では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といい、戦後の日本国憲法では「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」という。

もちろん、憲法に定められたからといって、それに伴う政府や国民の行動がなければ意味をなさない。帝国憲法が統治者と定めた「万世一系ノ天皇」も、現行憲法にいう「日本国民統合の象徴」である天皇も、さまざまな出来事を通して、その内実を獲得していった。

逆にいえば、「天皇とは何か」を法理論や抽象的な思想によって考えても、一般の国民が思う天皇のことはよくわからない。それよりも、「あのとき、こんなことがあった」という具体的な事象をたどれば、天皇とは何かをもっとよく理解する糸口になるだろう。(略)

明治天皇陵は、じつは東京近辺につくられるはずだった。京都の伏見が陵所に選定されたことに対して、時の内務大臣だった原敬は「何か特別の理由ある事と思ふ」と釈然としない思いを日記に書き残している。内政全般に責任を負う内務大臣でさえ知らない理由とは何だったのか。それも近代史の一面をものがたる出来事であった――。


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