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カニコウモリの花と果実 

この夏、宮沢賢治研究会のイーハトーブ旅行で岩手県の早池峰山に行った。登山道のわきにカニコウモリが咲いていた。
カニコウモリ花画像はクリックで拡大します。
カニコウモリの群落。
葉がこうもり傘みたいに広く、カニの甲羅みたいな形の草というのが名の由来だという。

カニコウモリ実
カニコウモリの果実。
カニコウモリは円錐花序に小さな白い花をたくさんつける。その形の花だと穂か房状に小さな実をたくさんつけるものだと思うのだが、カニコウモリは比較的大きな実を数個つけるところが風変わりだ。葉が同じなのでカニコウモリの果実に違いないと思うのだが、信じ難い気もする。

早池峰山の登山道の脇にギンリョウソウもあった。珍しいので撮影した。
ギンリョウソウ
ギンリョウソウ
(大角修)

稲刈り後の田んぼが緑に 

稲刈りが近所の田んぼでは8月23日に始まった(千葉県佐倉市)

稲刈り風景画像はクリックで拡大します。
今年のイネの稔りは良いという。

イネ株
米がみのった株と刈り取られた株。田んぼの隅を手で刈ってコンバインを入れるところをつくる。機械化が進んでも農業に手仕事は多い。

コンバイン
コンバインで稲刈り。

コンパインわら
コンバインは稲刈りと同時に雑穀し、わらは刻んで田んぼにまき、肥料にする。

コンバイン・軽トラ
もみは軽トラックでライスセンターに運ぶ。この日は猛暑だった。大型コンバインの運転席はエアコンが効いているけれど、軽トラは暑さが大変だという。

モミスリ機
ライスセンターに運んだ籾は乾燥機にかけ、翌日、もみすりして玄米にする。写真の大きな袋には玄米が1トン入る。

モミガラ
籾殻はもみすり機からパイプで運ばれ、屋外の置き場に噴き出す。

日本では玄米で保管するが、外国では籾である。統計も外国は籾の量だから10%か20%ほど日本より数値が大きくなる。

籾だと数年間保管しても変質が少ないが、玄米は変質しやすい。そのため冷蔵倉庫が必要になるなど、コストがかかる。日本は米不足が常態だった時期が長く、何年も米を保管することがなかったためかもしれない。

ちなみに胚芽がある玄米より、デンプンだけにした白米のほうが変質しにくいそうだ。しかし、なんとなく精米したてのほうがおいしい気がして、わざわざコイン精米器を置いているスーパーもある。


イネ櫱
稲刈りから15日たった。田んぼは再び緑に変わる。

イネ櫱1週間1
こちらは稲刈りから1週間くらいたった株。櫱(ひこばえ)の若い葉が出ている。

刈り取られた茎(悍)の真ん中に大きな空洞がある。麦と同じストローのようだ。
しかし、拡大して見てもらえば、イネの悍は麦と違って、中央の大きな空洞を取り巻く部分に小さな穴がたくさん見える。この穴は泥の中の根につながている。レンコンの穴と同じで大気中の酸素ガスを根に運ぶ役割をしている。イネが酸素不足の泥地で育つ秘密である。


イネ櫱ねもとのコピー

櫱が生じた株の根元。ひこばえは根元で分蘖(ぶんけつ)して出ている。これがイネ科の植物の特色だ。

イネ科はステップのような草原で進化した植物らしい。草食動物に食べられても根元で分蘖して再生するので、ダメージが小さい。

ひこばえのイネは、田植えの苗と違って根を張る必要がないので、あっというまに穂を出す。米も稔る。質が悪くて食用にはできないが、飼料には活用できるということで収穫している農家もあるらしい。

日本の食糧自給率のうち穀物およびカロリー自給率を引き下げているのは飼料用穀物の輸入量が膨大であること。おもに飼料に使われるトウモロコシの消費量は実に米と小麦の消費量の合計より多い。飼料の自給率を高めることが食糧自給率の改善に直結するのだから、ひこぱえの米の収穫の意味は大きい。農家への補助金はこういう分野に使うべきではないだろうか
(大角修)

とぐろを巻いたヘビウリ 

歴史民俗博物館の植物園に行ったら、とぐろを巻いたヘビウリがあった。

実が蛇みたいに長いのでヘビウリというが、これまで真っ直ぐな実しか見たことがなかった。真っ直ぐだと気絶して延びている感じにしか見えないが、とぐろを巻くと、不気味に頭を持ち上げている蛇のよう。ヘビウリはこうでなくてはなるまい。


へびうり画像はクリックで拡大します。

キュウリでも実が曲がり、ぐるっと回転するほどになることがある。実の両側がアンバランスに大きくなった結果だというが、どうして重力に反して、こんな成長をするのか、よくわからない。

へびうり普通
これが普通のヘビウリ。生食できる。植物園で来園者に切って配っていたことがあるので食べてみた。味はほとんどしないが、水気が多くて夏には涼気がある。原産地のインドではありがたいウリかもしれない。

ヘビウリ花
ヘビウリの花。カラスウリに近いウリで、花は似ている。
(大角修)

オリンピックエンブレム、類似がいけないのか 

佐野研二郎さんデザインのエンブレムが取り下げになった。遠藤利明五輪担当相と武藤敏郎組織委員会事務総長は、審査委員会、佐野氏と三者三様の責任があると言っている。それなら、損害賠償に際して三者の責任の軽重に応じて分担するということになるが、そのようには聞こえない。誰にも責任はないと言っているように聞こえる。そんなことでは今後が思いやられるのである。

あのエンブレムが発表されたとき、私には2つの違和感があった。

ひとつは黒と赤の色彩が日本というよりドイツカラーだったこと。ちょうど自宅に近い国立歴史民俗博物館で開催中の「日独修好150年」の特別展のポスターと似ているといえばよく似ている。

もうひとつ非常に大きな違和感は「なぜ、Tなのか」。

今度のオリンピックは東日本大震災の復興をアピールして誘致活動が展開された。さらに、地方創生が大きな課題となるなかで、オリンピックで東京集中がいっそう進むのではないかと懸念されている。地方ではオリンピックは「東京で勝手にやってよ」とシラケているともいう。そんなときに「T」ではオールジャパンのシンボルにはなりえまい。

また、「T」はどうアレンジしても既存のロゴやマークと類似してしまうという声も発表直後から聞かれた。案の定、懸念されたとおりになってしまった。問題の発生当初からSTAP細胞の理研みたいになるんじゃないかと心配されたが、あれほどひどいことにならずにすんでよかった。

しかし、組織委員会ならぴに審査委員会は何を考えて「T」でよしとしたのか、その見識は疑わざるを得ない。

エンブレム取り下げは、ネット上で次々に佐野作品と似ている例が見つかり、佐野氏への激しいハッシングも起こったことが大きな理由になった。それに対して、今後は類似のデザインがないかどうかしっかり検証しなくてはならないといった意見が、その方面の研究者や弁護士、ニュースのコメンテーター等から多く聞かれる。

しかし、類似が悪いのだろうか。そもそも美術や意匠デザインには「時代の様式」というものがある。大正モダニズム、昭和レトロなど、その時代のデザインには大きく共通するところがあり、類似している。そうでなければ世の中の人々の気持ちにそぐわず、いいとも悪いとも感じないだろう。

それより大きな問題は、類似にナーヴァスになるあまり自己規制が過ぎて萎縮してしまうことだ。そうなったらつまらない。とりわけ、地方の自治体の観光誘致のロゴや来年の伊勢サミットのロゴなど、役所がからむところで自己規制が大きくなる気配が農耕である。

もちろん、守らなければならないルールがある。佐野氏はそれに違反したのである。それはサントリーのトートバックの図案盗用である。これは類似性の問題ではなく明らかに無断使用だった。スタッフがやったことだという言い訳は成り立たない。それゆえ佐野氏も取り下げたのだが、問題はオリンピック・エンブレムのイメージを大きく傷つけてしまったことである。

その時点でオリンピック・エンブレムも取り下げるべきだった。エンブレムのイメージを傷つけてしまった以上、自ら取り下げることが節義というものであろう。

かつての日本では信義とか節義ということが社会の重いルールだった。今は法的にどうかといったことばかりが取り上げられ、何かと言えば弁護士に意見が求められる。しかし法律とは関係なく、信義は今も生きている。

佐野氏は、「私はパクリということをやったことはない」と開き直り、いつまでも「エンブレムは盗用ではない」と言いつづけた。私もエンブレムのデザイン自体には訴訟に及ぶほどの問題はないのだろうと思う。しかし、佐野氏の発言は、信義にもとる。いさぎよくない。以後のパッシングはそのために発生した。

組織委員会では1年も多額の費用をかけて類似のものかないかどうかを検査し、いくつかあったのでデザインを修正したと発表したが、その類似のものとは何だったのか、そこにベルギー・リエージュ美術館のロゴは含まれていたのかどうかは未だに公表していない。

法的にどうかとか、個別事例の細部に限定して問題の矮小化を図り、かえって危機を深めてしまう。まったくまずい対応だった。

もし、トートバックの図案盗用が明らかになった時点で佐野氏自身がエンブレムも取り下げしていれば、恥を知り名誉を重んじるサムライとして世界にアピールできたかもしれないし、しばらく蟄居しても佐野待望論が世間に起こるかもしれない。

これから募集しなおしだが、今度は広く公開することを肝に銘じてほしい。じつは私は、今度のオリンピックのマークは桜のリースだと思っていた。佐野氏の「T」デザインは発表時の会見で何やかやと説明していたが、そんな説明をしなければならないところが、そもそもデザインとして失格である。桜のリースは一目で「ジャパン」をアピールし、説明は不要だった。

それなのに、桜のリースは招致エンブレムというもので、正式のエンブレムは「T」だと発表されて初めて知った次第である。多くの人がそうだったのではないか。

それというのも、応募資格が厳しくて多くの国民には関係ないような仕組みだったようだ。オールジャパンで盛り上げようというときにバカげた密室性というか、素人にはまかせられないという愚民観に支配されている。

今度は広く募集し、専門家の委員会で数例に絞り込んだあと、候補作品として公表して欲しい。早速ネットであれやこれやと話題になり、類似の作例も委員会の能力を遥かに超えて調べ上げてくれる。プライベートに人気投票のサイトも立ち上がるだろう。その大衆の意向を採用するかどうかは専門家の委員会で決定すべきだと思う。そのとき、どの作品を採用するにしても多くの人が納得できる説明をしなくてはならないことになる。
(大角修)

明治の徴兵事務条例 

国会議事堂周辺で安保関連法案をめぐって「徴兵制復活!」などのプラカードが立つかたわら、上野不忍池のほとりの古書の露店で『徴兵令 徴兵事務條例』明治十三年刊を見つけて購入した。

この「徴兵事務條例」は地方の兵事係のマニュアルで、「徴兵令」の条文に加えて徴兵検査の手続きや書式など一式である。私が入手したのは山梨県甲府常磐町の内藤傳右衛門が「お届け」して出版したもので、定価は「一金二十銭」。表紙に「幡埜私蔵」と記されている。
幡埜は「はたの」と読むのだろう。裏表紙には「幡野」と記名。

『徴兵令 徴兵事務條例』表紙
徴兵令表1 画像はクリックで拡大します。
上部に「明治十三年十月改正」と書いたあと、朱で「十貳年」に訂正している。

徴兵令は明治6年(1873)に陸軍省から発布。その後、太政官布告で何度か改定され、明治22年(1889)に法律として制定された。

この「徴兵令 徴兵事務條例」はその途上だが、軍の編成に「国民軍」という「国民」の名を用いたもの(17歳から40歳までの全国の男子を兵籍に記載して非常時に備えておくこと)があり、興味深い。司馬遼太郎氏が『「明治」という国家』で主張されているように、明治維新で生み出されたものは何よりも「国民」という意識であったからだ。

裏表紙にも書き込みがある。
徴兵令表4
紀元貳千五百四十年 明治十三年九月十五日
山梨縣南都留郡役所ニテ求之(之を求む)
海内日本皆兵也

裏表紙には「幡野」という記名が朱で2度も書かれている。「幡野」が誰だかわからないが、兵事関係の職を得た元武士(士族)ではないか。

甲州は武田氏の滅亡後、江戸時代には幕府の直轄地だった時期が長い。「幡野」は幕臣につながる下級武士だったのではないかと想像される。おそらく、当時の士族の多くと同じように零落した武士で、「幡野」の家名を誇りとしていたのだろう。

彼は南都留郡役所で「一金二十銭」をはたいて『徴兵事務條例』を贖った。のちに内容を紹介するときに触れるが、「幡野」の面目を保つには、このマニュアルを購入する必要があったからにちがいない。

「郡」は明治から戦前までは地方の行政単位だった。南都留郡は富士吉田市・富士河口湖町などの一帯で、郡役所は谷村(現・都留市)に置かれ、明治11年(1878)に発足。

当時、郡役所の建物はたいそう立派なものだった。隣接する東山梨郡役所(明治18年建築)が明治村に移築されて現存する。文明開化を地方に知らしめる洋風の建物である。
東山梨郡役所
東山梨郡役所 Wikipedia「東山梨郡役所」より
☞明治村・東山梨郡役所

南都留郡役所の建物は現存しない。また、幡野が『徴兵事務條例』を買い入れた明治13年に、このような洋風の庁舎ができていたか知らないが、維新の新風は甲斐の山中にも吹き渡っていた。

そのことは幡野が裏表紙に2度大書している「海内日本」という語によって感じられる。「海内かいだい」は、もとは仏教語の一天四海の内、つまり天下全体をいい、明治によく使われた。そのころの気分をあらわす語のひとつである。その「海内日本」は「皆兵也」と幡野は意気込むのである。

「海内皆兵」は明治初期の国民皆兵論のスローガンでもあった。

裏表紙に書き込まれている「紀元貳千五百四十年」は人皇初代の神武天皇の即位から数えて2540年という。といっても、その歴史は浅く、明治5年(1872)に政府が定めた紀元である。『日本書紀』の帝紀を元に計算したものだが、『日本書紀』では神武天皇の即位は元旦のことなのに、明治政府は欧米の太陽暦を採用して2月11日とした。戦前の紀元節、現在の建国記念の日である。

それについては「新・日本の歴史」第一巻に触れたので、その該当ページをアップする。

「皇紀元年」と建国記念の日
1巻p22-23

なお、神武紀元は江戸時代中頃から発達した国学で主張されるようになった。明治維新は国学に加えて、儒学が一体になった水戸学に大きく影響されている。それについては「新・日本の歴史」第五巻で触れた。その部分もアップしておきたい。

この部分には世界遺産に登録された「明治日本の産業革命遺産」に含まれる松下村塾も掲載したが、当時は水戸徳川家の藩校・弘道館のほうが遙かに大きく重要な存在だったことは言うまでもない。

『古事記』と『日本書紀』の再発見
歴史5巻p72

弘道館と松下村塾と攘夷論
歴史5巻p74

第5巻 江戸時代と日本人の心 江戸・明治時代以降 目次
新歴史5大 5巻目次

☞『新・日本の歴史シリーズ』について

(大角修)

地獄を破る 

華厳経「唯心偈」末尾の「若人欲了知 三世一切仏 応当如是観 心造諸如来」の四句は「破地獄偈」といわれ、よく葬儀で僧がとなえるお経になっている(宗派によって少し語句が異なる)。

中国の故事に、死んだ人が地獄の門で地蔵菩薩から教えられ、閻魔大王の前で唱えて自分だけでなく地獄の亡者たちを救ったという話があるからだ。

この「唯心偈」がある華厳経の「夜摩天宮菩薩説偈品」の「夜摩天宮」とは、インド古代の神話の人類の父祖ヤマの天空の王宮である。

夜摩天が中国の冥界の十王と習合して閻魔大王にになるのだが、その性格は大きく異なるものになった。

華厳経についてはブログを中断していた昨年、『善財童子の旅〔現代語訳〕華厳経「入法界品」』(四六版・304頁・定価2,500円 春秋社)を上梓した。この本については改めてアップしたい。

夜摩天宮から地獄の閻魔王宮へ

まんだらp104 まんだらp106

『まんだら絵解き図鑑』表紙と目次
まんだら絵解きカバー まんだらp2目次

発行・双葉社 A5判128ページ 定価1500円+税
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(大角修)

宮沢賢治の曼荼羅本尊2 

宮沢家は真宗大谷派安浄寺の門徒だった。賢治が法華経に帰依してから、父の政治郎と激しく言い争うことがあったという。

この父子の争いは、浄土信仰と法華信仰の教義論争の観点から論じられていることが多いけれど、教義で激しく争うようなことは、あまり考えられることではない。

親戚の関徳彌によれば、国柱会から届いた大曼荼羅本尊を賢治は経師屋に注文した掛け軸で賢治自身が表装し、仏壇に勧請した。「その日の読経や式の次第は実にりっぱで、後に控えている私はそのりっぱさに感動したものです」(関『賢治随聞』)ということだが、そのりっぱな読経の声は、階下の家族を困惑させた。

 また、賢治は十二月には寒修行と称して花巻の夜の街を「南無妙法蓮華経」と高らかに唱題して歩いた。ある夜、政次郎が関の家に来ていたときに雪道を歩いてくる賢治の「南無妙法蓮華経」が聞こえてきた。政次郎は「困ったことをするものだ」といって眉根を暗くしたという(関『同』)

こうしたことに加えて、賢治が父に家の転宗を迫ったことが対立の一番の理由になっただろう。

転宗となれば、先祖代々の菩提寺との縁を切ることになり、親戚とのつきあいも変わる。盆・彼岸の行事や年忌法要の習わしも変わり、仏壇も取り替えねばならない。宮沢家の墓は菩提寺の安浄寺にあったので、それも移転する必要がある。そうした実際のくさぐさが非常にやっかいだ。

これは信仰がどうのという問題ではない。息子が転宗を言い出したりすれば、家長たる父親が怒らないほうがおかしい。政次郎も激しく怒ったようだが、父は「困ったことをするものだ」と関が書き伝えているように、暗然たる気分だったというほうが近いだろう

さらに、宮沢家の困惑は2つの仏壇にあっただろう。1階で父ら家族が「南無阿弥陀仏」ととなえれぱ、賢治が2階で「南無妙法蓮華経」ととなえる。そんな事態が生じたのである。

そして賢治の没後も、宮沢家には2つの仏壇がある状態が続いた。以下、次回。


☞日蓮の法華経

☞宮沢賢治の曼荼羅本尊
賢治曼荼羅

著書『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』へ
  『イーハトーブ悪人列伝 宮沢賢治童話のおかしなやつら』へ


賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

宮沢賢治の曼荼羅本尊 

日蓮の曼荼羅をとりあげたついでに宮沢賢治の曼荼羅本尊について。☞「日蓮の曼荼羅を絵解き」

賢治は24歳の大正9年(1920)10月か11月ころ、法華信仰団体の国柱会に入会。翌年1月には上京して8月頃まで、その活動に参加した。それは進路に悩んだ時期であり、友人の保阪嘉内あての手紙などには過激な法華信仰が見られる。この時期の賢治については『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』で論じた。

その後、花巻に戻ってからは過激な法華信仰の主張はなくなるが、国柱会から与えられた大曼荼羅は生涯、自身の本尊として持しつづけた。

宮沢賢治の大曼荼羅本尊
賢治曼荼羅
(http://kankyo-iihatobu.la.coocan.jp/index.htmlより)

この曼荼羅は現存しない佐渡始顕の大曼荼羅(☞「日蓮の法華経」参照)の写しだと伝えている。書き込まれている文字は他の大曼荼羅と同じだが、大きく異なる特色がある。

上部に、左右振り分けの形で「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」と書き込まれている。読み下せば「もし人、病あり、この経(法華経)を聞くを得れば」「病は即ち消滅し不老不死なり」となる。

日蓮は数多く曼荼羅をあらわして弟子や信徒に与えた。そのなかで、この文字をもつ曼荼羅がどれくらいあるのか。法蔵館の『日蓮聖人真蹟集成』で調べたことがある。

収録120点ほどの曼荼羅のうち、この文字があるのは確か3点か4点ほどだった。レアな例である。おそらく、自分か家族が重い病気で苦しむ弟子か信徒を励まして授けた本尊ではないかと思われる。

賢治は、若く病死した妹のトシを悼んで「永訣の朝」「無声慟哭」などの痛哭の詩をつくったほか、賢治自身も結核で肺を病み、37歳で没する。

賢治は病気に苦しみつづけた。ところが、本尊に記された「若人有病得聞是経」「病即消滅不老不死」の言葉については何も語っていない。

なお、賢治の曼荼羅は後に宮沢家が日蓮宗に転宗するにあたって仏壇の本尊として祀られ、今日に至る。そこには父親の政次郎の思いをしのばせる証言がある。次回、触れたい。


☞過去記事「宮沢賢治と仏教1」

著書『「宮沢賢治」の誕生 そのとき銀河鉄道の汽笛が鳴った』へ
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賢治誕生小 悪人列伝小
(大角修)

日蓮の法華経 

「南無妙法蓮華経」の題目と大曼荼羅については日蓮の遺文に「本門の本尊」「三大秘法」のひとつして記されている。解説ページではそれに触れたが、日蓮宗は室町・江戸時代に広まり、身延山久遠寺と池上本門寺が宗祖の霊跡となり、落語「鰍沢」で知られるように身延参詣が盛んになった。「身延山図経」とも呼ばれる身延参詣絵図が多く残る。

『まんだら絵解き図鑑』では、江戸時代の京都深草の僧・元政の『身延道の記』を紹介した。今生の最期の願いとして身延詣でを望む老母を連れての旅だった。

日蓮の法華経と曼荼羅


まんだらp114 まんだらp116 まんだらp118
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日蓮以前の法華曼荼羅 

日蓮は文永8年(1271)に佐渡に流罪となり、その地で大曼荼羅本尊を初めて書きあらわした。自らの意志で書いたというより、本尊を感得した最初ということで、それを佐渡始顕の大曼荼羅という。

しかし何事にも前史がある。平安時代には法華曼荼羅が描かれるようになった。それは法華経の二仏(釈迦・多宝如来)が坐す塔を中心とするが、構図は胎蔵曼荼羅の中台八葉院と同様である。

法華曼荼羅

まんだらp58 画像はクリックで拡大します。


法華曼荼羅は『源氏物語』の「鈴虫」の帖にも出る。光源氏は正室に迎えた女三宮の出家の願いをいれて、持仏堂を造り、仏像や仏具を整えた。その奥に法華曼荼羅が架けられた。

しかし、平安時代のことだから、法華と念仏は一体である。持仏堂の本尊は阿弥陀三尊で白檀の木彫だった。

光源氏は女三宮が読誦する阿弥陀経1巻を自ら書写し、来世には共に極楽浄土に生まれることを願った。そのほか、六道の衆生のために六部の経(阿弥陀経)をこしらえたという。

なお、下部をドーム状の半球型にする多宝塔の形は密教に影響し、真言宗寺院にも多い。そのぱあいは釈迦・多宝の二仏ではなく、大日如来や薬師如来が本尊として中央に置かれることが多い。高野山の壇上伽藍の大塔も下の写真のように多宝塔型で大日如来を中心に曼荼羅の諸尊が納められている

高野山の壇上伽藍

まんだらp80

表紙と目次
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日蓮の曼荼羅を絵解き 

曼荼羅の本には、日蓮の「南無妙法蓮華経」の文字曼荼羅が掲載されていないことがよくある。

厳密には空海の両界曼荼羅やチベットのマンダラが曼荼羅なのであって、日本の当麻曼荼羅は観無量寿経に説かれていることを図示した変相図、春日曼荼羅や富士参詣曼荼羅、立山曼荼羅などは寺社境内図の一種だという判断からだろう。

日蓮の題目曼荼羅は特異なものとして、曼荼羅の本には載せられないか、少し触れられている程度である。しかし、日蓮宗・法華宗、創価学会・ 立正佼成会などの法華信徒は非常に多い。曼荼羅といえば日蓮の文字曼荼羅(大曼荼羅本尊)のことだと思う人は多いはでずである。それを無視することはできない。『まんだら絵解き図鑑』では、日蓮の文字曼荼羅も絵解きで掲載した。

これには少し戸惑いがあった。文字曼荼羅(大曼荼羅本尊)のうち、上部中央の二尊四士とよばれる部分、また十羅刹女の部分などの図画には伝統的なものがあるけれど、大曼荼羅本尊の全体を絵にしてよいものだろうか。そんな懸念があったので、解説で曼荼羅の霊性を損なわないように配慮した。


日蓮の大曼荼羅本尊
まんだら仮p60 まんだらp62 まんだらp64
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鎮護国家の仏法・国分寺と薬師如来 

飛鳥・奈良の国家仏教は、いわゆる鎮護国家を祈る儀礼を中心とし、壮麗な伽藍や法会は、その装置だった。そうした儀礼なしには古代国家は体をなさない。

日本史の通説では、鎮護国家は「仏の力で国を護ること」などと語句を言い換えたにすぎないような説明がされ、古代人の妄想みたいなものだと考えられてきた。

鎮護国家は仏法の基層を形成し、家内安全、受験合格、厄除け祈願などに今も生きている。その成立を国分寺建立の経緯にみてみよう。

国分寺の建立

歴史1巻p72 歴史1巻p74 歴史1巻p76
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第一巻「国の成り立ちと仏教伝来」14 ☞01へ 
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